今回は、「宗教的理学療法における自然治癒力」と題して、プラセボ効果や理学療法の学術的側面に関する雑感を色々と記載してみる。

 

目次

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徒手理学療法における学術的側面

 

徒手理学療法の学術的側面は重要となってくる。

 

例えば徒手理学療法として誰しもが知っているような評価手法が、検証の結果「想定していた解剖・運動学的な理屈と実際が異なっていた」ということで用いられなくなることがある。

 

この様に徒手理学療法もエビデンスとすり合わせることで、ブラッシュアップされているということだ。

 

あるいは、(感度・特異度も含めた指標も踏まえて)複数の評価を実施することで、仮説の確度を上げようとする試みがなされていたりする。

 

※我々は医師ではいし、確定診断ができるレベルの徒手的評価は確立されていないため、あくまで仮説の確度を上げるための試みということになる。

 

徒手理学療法における鎮痛メカニズムには、非常に多くの要素が絡んでおり、厳密に特定することは不可能なのもしれない。

 

同様に、どの組織に問題があるかを(厳密に)突き止めることは困難なため、刺激を加えた際の好反応が得られれば、それを用いれば良いする考えもある(これは反応重視学派寄りな考えである)。

 

そして、これらの考えのもと「原因を突き止める」という視点ではなく、「効果が認められるかどうか」といった外堀を埋めるようなエビデンスによって、優位性を示そうとする場合もある。

 

一方で、評価・治療手技に関する研究の結果として、再現性・妥当性は乏しいながらも用いられているケースもある。

 

いずれにしても、これらの様々な研究によって導き出されたエビデンスは、ネガティブな要素も含めて、非常に貴重な情報と言える。

 

そして、これらのネガティブ・ポジティブな要素は、私たちが臨床を行うにあたって、主観ではなく一つの軸となり臨床推論を可能とする。

 

一方で、これらの検証が行われていない学派は、「良くなっている」という結果が得られている場合は良いが、いまいちアプローチに反応しないクライアント、全く反応しないクライアントに遭遇した際は、「自分の技術が乏しいから効果がないのだ」程度にしか思考がめぐらせなくなることがある。

 

もちろん、多くの概念を有していれば、他の思考に切り替えることは容易なのだが、マインドコントロールされている場合は、そう簡単にはいかない場合もあったりする。

 

そうなると、ひたすら研修に励んで、技術を磨いてということになるが、それでも、ある程度の域まで達すると、「これはプラセボ効果では?」という疑念に突き当たることがある。

 

そうなると、「このまま、その組織が主張することを支持して突き進むのか」あるいは「その組織と決別するのか(あるいは別のコンセプトも取り入れるのか)」を決断しなければならない場面に直面することもあるかもしれない。

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プラセボ効果の見極め方

 

プラセボ効果の優位性がどの程度かの見極め方に、これ!というものは無いが、誰でも簡便に活用出来そうなものを考えてみた。

 

その検証方法とは「クライアントに用いている概念を、そのまま家族に実施してみる」というもので、誰でも実践可能と思われる。

 

ただし、この方法を実践するには条件がある。

 

家族があなたを尊敬していたり、あなたの施術を支持していたりすると、その気持ちがプラシーボ効果として上乗せしてしまうため、プラシーボ効果の優位性を検証は出来ない。

 

もちろん、(あまり一般的ではないが)家族に神のように崇められていたらプラシーボ効果は働いてしまう(オウム真理教の麻原彰晃がそうであったように)。

 

検証出来るのは、あなたが持っている「肩書きや名声」に興味がなく、自身の施術に関しても無頓着、あるいは「頑張っているから何も言わずに見守ってあげている程度のスタンス」な人というのが条件である。

 

もし、自堕落で家族に尊敬されていない医師であったとしても、家族がインフルエンザにかかった際に処方する薬は(医師が尊敬されているか、嫌われているかなどに関係なく)作用する。

 

しかし、プラシーボ効果の優位性が高い治療概念な場合は、あなたが家族にどう思われているかによっては、治療手技が作用しない可能性が高くなる。

 

一方で、マッケンジー法や、マッサージなどのメカニカルな要素の強い概念は、プラシーボ効果の優位性が低いため(触れられるのも気持ち悪いなど)よっぽど家族に嫌われていない限りは、適切な刺激として効果が表れる可能性が高いと言える(もちろんマッサージの技術があることが前提条件にはなり得る)。

 

従って、家族に実施してみて「あれ?クライアントへ施術した際は効果的だったのに、家族には全く効かないな?」という手ごたえであれば、それはプラシーボ効果の優位性について思考を巡らせてみる価値があるかもしれない。

 

※もちろん、プラシーボ効果と決めつけず、メタ認知を働かせ、変化が見られない根拠をプラシーボ効果以外の要素でも考察してみることは大切である。

 

 

宗教からの離脱

 

私はプラシーボ効果については肯定的だ。

 

(誤解を恐れず極端な言い方をするならば)良くなりさえすれば、何をやっても構わないとすら思っている。

 

ただし、多額のお金をつぎ込んで、結局カモにされて、その技術が「臨床における効果」や「自身の未来」につながらなかった人がいるのだとすれば、それは不幸なことだと思っている。

 

従ってこの記事は、スピリチュアルな要素が強く、プラシーボ効果の優位性がアヤフヤな概念に興味を持っている人に対して書いている。

 

あなたが興味を持っている治療概念や手技(プラシーボ効果を、崇高な理屈で神秘化している可能性が高いもの)に関して、あなたが心酔して努力したとしても、その概念への相性によって「プラシーボ効果を発揮できる人」になり得る一方で、「そうでない人」にもなり得ると言うことだ。

 

そして、崇高な理屈を信じ込んで、多額のお金をつぎ込んで(プラシーボ効果を発揮できる人になれれば良いが)、途中で挫折してしまった人は不幸でしかない。

 

もちろん「熟達した徒手療法の基礎」には共通点も多い為、全く無駄ということは有り得ない。

 

しかし、サンクコストを考えると、早めに情報リテラシーを発揮して、自身と相性の良い概念かどうかを判断したほうが良い場合もあるというこことだ。

 

医療において、「全くプラシーボ・ノーシーボ効果が加味されていない」ということはあり得ないが、その要素が強いかどうかを自分自身で考えておくことには価値があると考える。

 

 

重要なのは、自身の行為を科学とすり合わせようとするスタンス

 

プラシーボか見極めるなら、症状が悪化する方向への刺激も加えてみるという発想も一考である。

 

症状を改善させる刺激の方向が分かった場合、それがハッキリとしたメカニカルな刺激であれば、悪化する方向も分かることが多い。

 

悪化するはずな方向にも関わらず、良くなったというならプラシーボか、相手が自分に気を使っているのか、自身の仮説が間違っているのかのいずれかな可能性がある。

 

この様に、理学療法士・作業療法士は、医師のような厳密な診断的治療はできないものの、あえてメカニカルな負荷を活用して痛みを変化させることで、様々な検証が可能となる。

 

一方で、「自然治癒力を高める」という目的をもった治療手技では、この様な試験的治療は行われない。

 

「あえて自然治癒力を低減させるアプローチ」を行って、実際に逓減するようなら、自然治癒力の問題と確定させることが理屈上は出来るものの、そのような方法は、あまり見かけないという事である。

 

私自身は、その様な手段を知ってはいるが、その類のアプローチを用いる際にわざわざ検証しようという気は起こらない。

 

そんな検証をするよりも、「四の五の言わずに結果が出せる方向に全力を注いで、それでダメならやめる」という介入の方が適しているというスタンスだ。

 

そう考えると、いわゆる「とりあえずやってみる」系な概念のパターンに分類されるということになるのかもしれない。

 

また、宗教的治療の中には即時的効果はほとんど無く、「数日かけて徐々に自然治癒力の効果が波及してくる」などと謳っている類も含まれる。

 

※あるいは即時的効果があると思って試したはいいが、何の変化も起きなかったため、逃げ口上として用いられる常套句としても使えそうな言葉である。

 

(その様なことが起こる可能性もあり得るが)そうなってくるとプラシーボ効果、あるいは「治療しなくても自然治癒力で勝手に良くなるパターン」との違いが更にアヤフヤになってきて、「宗教的」というか、もはや「宗教」の域に突入してしまうこととなる。

 

ちなみに、「自身が施術が自然治癒力に影響を及ぼす」という事を、もっともらしくクライアントに伝える行為そのものがプラシーボ効果に作用することになる。

 

この点に関して、書籍:スタンフォードのストレスを力に変える教科書では以下の様に記載されている。

 

医師や科学者達は長い間、プラセボ効果を得るためには、相手を騙す必要があると思っていました。

 

つまり偽薬の効果が現れるのは、患者が本物の薬だと思って服用した場合に限られると考えていたのです。

 

ところが後に、偽薬の効果が表れるのは、患者が騙されるからではないことが判明しました。

 

患者が偽薬としって服用した場合でも、効果は現れたのです。

 

非盲検(臨床試験を行う際に、参加者がどの治療群に割り振られたかを、医師や参加者らが承知している試験法)のプラセボ試験では、パッケージにははっきりと「プラセボ」と書かれた薬が患者に渡されます。

 

成分一覧表はきわめて短く、微結晶セルロース(=糖分)のみ。医師は患者に対して、これは偽薬であり有効成分は入っていないことを説明します。

 

けれども医師は次のような説明を付け加えます。

 

「あなたの心と体には、さまざまな自然治癒力が備わっています。プラセボは自然治癒力を起こす引き金になるんです。ですからぜひ、きちんと飲んでください」

 

すると驚いたことに、「プラセボ」だと承知して飲んだ薬によって、患者たちの片頭痛や過敏性腸症候群や、うつ病などの症状が寛解してしまったのです。

 

その効果は、実際に最善の治療を施した場合と比べても引けを取らないほどでした。

 

患者にプラセボ効果のトリックの仕組みを説明し、あえて引っ掛かってもらった場合でも、プラセボ効果の威力は減らないどころか、かえって高まります。

 

話は脱線したがプラシーボ効果の優位性が不透明な概念は、とりあえず自然治癒力を高めると称した治療をやってみて、後は本人の反応をみて、良くなっていれば自然治癒力で確定といった流れが多い気がする。

 

※もちろん、妙に理屈っぽく評価を行っている体をして、単なる思い込みでブッとんだ思考を巡らせて、自分勝手に解釈して、そうするとその様な類の要素を「評価」と称して感じとって、それを基に介入をしていると思い込んでいる場合もあるかもしれない。

 

自身の行っている行為を、解剖・生理・運動の都合の良い部分を切り取って辻褄合わせをするだけにとどまらず、「その辻褄」と「科学」とをすり合わせようという姿勢が見えるかどうかでも、それらを提唱する学派の医療に向き合う姿勢が見えてくると思われる。

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宗教的理学療法と自然治癒力

 

とある概念の哲学の一つに「自然治癒力」に言及されているものがあるが、自然治癒力を謳うのであれば、プラシーボ効果への探求、セルフエフェカシーの向上などは切っても切り離せない要素といえる。

 

にも関わらず、それらを度外視しているとするならば、自然治癒力を語るに値しない。

関連記事⇒『セルフエフィカシー

 

セルフエフィカシーにフォーカスするのであれば、「まずは目下の問題解決能力をクライアントに身につけてもらう」という視点は自然治癒力を語る上で重要と思われる。

 

そして、問題解決能力の向上を考えるにあたって、自身の力では難しい際に「必要に応じて徒手療法でアシストしてあげる」ということが大切になり、自身ではどうしようもない際に初めてガッツリとした徒手療法が必要となる(のかもしれない)。

 

つまりは、宗教的理学療法に終始して、「その場では良くなって、家に帰るともう元に戻っている」という行為を良しとする人達は「自然治癒力」を度外視しているということになる。

 

重複するが、優先順位として「まずはがっつり徒手療法で、運動療法やセルフエフェカシー・コーピングスキルは二の次・三の次」というスタンスな時点で、「自然治癒力を高める」という理念に反しているということになる。

 

 

理学療法と哲学

 

私は科学的根拠のない治療概念を用いることを否定しない。

 

理想としては、「様々な概念・手技も引き出しとして取り入れる」というスタンスが理想とも思っているほどだ。

 

哲学という名のもとで「良いとこ取り」を許そうとせず、一つの概念だけで完結させようとしている団体にとっては「それは邪道だ」と言われるかもしれない。

 

しかし、各々の団体が主張する哲学や優位性を無視してみると、非常に補完性が高く、事実としてコンセプトを組み合わせて統合しているセラピストも多い。

 

※そもそも、これらの概念が謳っている哲学は(当然のことながら)抽象的であり、だからこそ当然のことを言っているにすぎない。しかも哲学という名の下でまとまりがあるのかと思いきや、それぞれの団体が言いたいことを言って自分達の優位性を高めようとしていたりする。この点に関して言及しすぎるとボリュームが嵩むので割愛する。

 

また、最初からこれらを統合させたコンセプトを指導している組織もある。

 

※私自身も、徒手理学療法のベーシックなコンセプトと相性が良かったり、補完性が高いものは積極的に取り入れている。

 

少し脱線するが、一般的な「哲学」は世の中に数多く存在する。

 

著名な人々が残した哲学は無数にあり、それらは最終的に一つの哲学に統合される事もあるが、時代を超えても個別の概念として受け継がれていることもある。

 

そんな数多くこの世に存在している哲学の中で、一つの哲学ばかりを学んでいると(その哲学が洗練されていた場合)あたかも世の中の事象がその哲学で説明できてしまう気がするかもしれない。

 

しかし、一つの哲学が絶対的な真理であると決めつけず、様々な哲学にも触れるとなると(触れた哲学が、あなたの学んだ哲学と同じくらい洗練されていた場合)、また違った見方ができるかもしれない。

 

そして、私たちのように哲学を活用する側からすれば、それらの哲学を、自身の活用しやすいように自分なりに統合していけば良いだけの話であり、
「哲学、哲学」と、一つの哲学に固執する人は、ぜひ別の視点でも物事を見るように心掛けてみてほしいものである。

 

物事は多面的であり、「この哲学は多面的に全てを包括して語ってくれている」というものですらも、哲学における一つの要素に過ぎない可能性を持っている。

 

他の哲学を学べば、別の視点も見えてくる。

 

そして重要なのは、一度で良いから自身の哲学、概念、信念を徹底的に疑ってみることだ。

 

それでもなお、一つの哲学、概念に執着するということは起きないのではと個人的には思っている。

 

話を戻して、例えば「身体構造・心身機能」に関する哲学は、人間の一側面を説いているに過ぎない。

 

もう一度言うが、リハビリテーションによる「全人間的復権」を考えた場合、「身体構造・心身機能」に関する哲学は、人間の一側面を説いているに過ぎず不十分であることは、理学療法士・作業療法士ならだれもが知っている常識である。

 

従って、本当にその人のことを考えるのであれば、もっと多面的な哲学が必要になることは想像に難くない。