別記事『負の情動は生きていく上で必須だが、慢性的な痛みにも関与してしまう』では、「慢性痛になってくると、痛みが感覚という側面よりも、情動という側面に支配されてしまうケースもあり得る」ということを紹介した。

 

また、極論として「痛みの原因が治癒した後も、不快などの情動が残存してしまっていることで辛く感じてしまっている」こともあり得るのではということも付け加えた。

 

そして、今回は前回の内容を補足する記事となる。

 

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感覚刺激は情動も伴った上で認知される

 

痛み感覚は、その他の様々な情報(記憶や情動やなど)と統合されて認知されるため、認知される上で様々な修飾が生じる。

 

そして、感覚が客観的な側面のみならず、様々な修飾が加えられていることを示唆する例として下記のエピソードがよく紹介される。

 

包丁を使用して指から出血をした2人組がいた。

 

2人とも傷の部位や深さ、出血の量は同じでだったが、

 

片方は「全然痛くない。こんなの唾をつけておけばすぐ治る」と言い

 

もう片方は痛み(+出血による恐怖)のため失神してしまった。

 

これは、客観的に判断できる情報(傷の部位や深さ・出血の量)は同じでも、本人達の主観は全く異なっていることが分かるエピソードであり、「痛みは主観である」と言われる所以である。

 

もし仮にVASを10点満点中で何点か聞いたとすると、一方は10点満点中1点と答えるのに対して、もう一方は10点と答えるかも知れない。

 

この様に感覚が認知されるまでに生じる様々な修飾は、痛み感覚だけではなく、全ての感覚に当てはまる。

 

そして、加味される情動によっては非常に辛いものにも変化する可能性を持っている。

 

例えば、あなたに「これから濡らしたティッシュを腕に押し当てて動かすので、動かす間目を閉じておいてください」と指示したとする。

 

目を閉じたあなたは、物が押し当てられた状態で皮膚上を移動しているのを感じてはいるが、この触覚刺激に関しては快・不快などの感情を抱くことはない。

 

しかし、目をあけるように指示されたあなたは、自分の皮膚に触れていたのが、実はティッシュではなくカエルの死骸だったことに気が付く。

 

その際に、あなたは身の毛のよだつ思いがするのではないだろうか?(気持ち悪い話をして申し訳ない・・・)

 

このように同じ触覚刺激であったとしても、それに付随する情動によって、こうも違いが出てくるのだ。

 

私は魚のヌルヌルに触れると鳥肌が立つので触れることができません。一方で、何も感じない人も多いのではないだろうか?

 

TVのコメディー番組で、本人には見えない形でコンニャクを触ってもらい、その人が蛇か何かと勘違いして大騒ぎする場面を見かけたことがある。

 

これらのことからも、感覚と情動は非常に密接に関与していることが伺える。

 

痛みに関して考える場合はここで示したように、感覚に付随する情動(不快)や意味つけ(痛みとは有害なものであるはずだ)によって、同じ痛み刺激でも捉え方に大きな差が生まれてしまうことは念頭に置いておいたほうが、正しく痛みを理解することができるのではと思っている。