不安とは恐れだが、それでは恐れとは何だろう。
神経学的に説明すれば、恐れとは危険の記憶である。
不安障害になると、脳は常に恐ろしかった時の記憶を再生しようとする。
すべては扁桃体が警報を響かせた時に始まるが、通常のストレス反応と違って、不安障害の場合は警報解除信号が適切に作動しない。
なにも問題はないとか、問題が片付いたからもうリラックスして良いなどと、認知の処理装置が教えてくれないのだ。
体と精神の緊張がもたらす感覚入力によって心があまりにもざわついているので、状況を正しく把握できなくなる。
こうした認識のずれが起きるのは、ひとつには前頭前野が扁桃体をしっかりコントロールしていないためだ。
全般性不安障害の患者の脳をスキャンしたところ、前頭前野の中で扁桃体に停止信号を送る部分が、小さすぎることが分かった。
歯止めがかからず、過度に興奮した扁桃体は、なんでもない状況をことごとく生命を脅かす危険とみなし、記憶に焼きつける。
その記憶はお互いに結びつき、不安が雪だるま式に膨れ上がる。
海馬は前頭前野を介して、その恐怖の意味を明らかにすることで闘争・逃走反応を和らげようとするのだが、その働きを扁桃体が圧倒してしまう。
そして、記憶が次々に恐怖と結び付き、不安が膨張する一方で、その人の世界は萎縮していく。
やっかいなのは、生存を脅かされた時の記憶が、既存の記憶を根こそぎ書き換えてしまうことだ。
たとえば、あなたが仕事帰りに毎晩同じ家の前を通るとしよう。
ある晩、そこから犬が飛び出してきてあなたに襲いかかり、血まみれになるまで噛みつかれたとする。
そのときから、おそらくあなたはその家の前を通らないようになるだろう。
襲われた記憶が、それまでずっと何事もなく通っていた記憶よりも強烈だからだ。
たとえその後、犬小屋が柵で囲われ、しかもあなたが世界で一番論理的な考えをする人間だとしても、やはり前を通る時に少々びくびくすると思われる。
恐怖の記憶が回路になると、その回路はずっと残る。
つまり恐怖は永遠に続くのだ。
科学者の予想に反して、不安障害を持つ人と持たない人の脳の活動を比べると、実際に恐ろしい刺激に対する扁桃体の反応に、差は認められなかったとする報告もある。(実際に恐ろしい刺激とは、たとえば恐怖に歪んだ表情の写真などだ。人間は他の人の表情から生き延びるためのヒントを読み取るようプログラムされているため、そのような写真は強力な効果があるらしい)。
一方で、この実験の際に差が出たのは「恐ろしくない」刺激に対する反応の方だった。
ほのぼのとした写真を見せられると、たいていの人は扁桃体の活動が一気に穏やかになるが、不安障害患者の扁桃体は、恐ろしい刺激の時と変わらない反応を示した。
これは、危険と安全の区別がついていないことを意味してしまう。