病院や老人保険施設、訪問看護ステーションから訪問リハビリを提供する理学療法士・作業療法士(や言語療法士)は増えてきている。
そんな中で今回は、訪問リハビリを実施するに当たって誰もが直面するリハビリテーションの難しさ、セラピストの不安や悩みをシェアしていこうと思う。
※ちなみに、この記事は2010年に投降した複数の記事を組み合わせたもので、「ですます調」で記載してある。
訪問リハビリの不安や悩み
2010年に開催された理学療法士協会主催の学術大会で『脳血管疾患維持期リハビリテーションの基本的アプローチとその効果判定』というテーマの公演に参加する機会がありました。
大会には運動器系の講演を中心に参加していて、これには息抜きのつもりでの参加でしたが非常に勉強になりました。
いや、勉強になったというか苦労話や考え方に共感できる部分が沢山あって励みになったという表現のほうが良いかもしれません。
講演のタイトルは上記のとおりですが、実際には脳血管疾患維持期のみではなく訪問リハビリに対するご自分の試みを語っておられました。
内容の核としては、文章にしてしまうと薄っぺらく聞こえてしまいますが、『疾患や障害者の前に、まず人ありき という対象者へ理解の仕方が重要である』ということだと仰っていました。
『脳卒中片麻痺患者の生活再建』ではなく『脳卒中片麻痺になった○○さんの生活再建』が重要とのことです。
そして、このニュアンスが分かるかどうか、訪問の際にはこのチャンネルに頭を切り替えれるかどうかが重要とのことでした。
つまり、評価がどうとか、治療がどうとかは二の次・三の次で、まずはこのような気持ちになれるかが大切というお話でした。
そして次に、『生活モデルによる適応的アプローチ』の重要性も話して下さいました。
医療分野でも介護(デイケアや訪リハ)分野でもICFの考えに基づいてPTは介入していくと思います。
ただ、やはり病院では『患者と捉え、悪い部分を治し、正常に近づける。個人に働きかけるアプローチ』といった医学モデルによる治療アプローチになってしまいがちだと思います。
『心身機能』中心の介入から入り、『個人因子』や『環境因子』も加味しながら『活動』『参加』へとつなげていくという流れです。
一方、訪リハでは『生活者と捉え、その人らしい生活の質の向上を行う個人と環境の関係性に働きかえるアプローチ』といった生活モデルによる適応的アプローチに頭を切り替えることが大切とのことでした。
『生活活動』を中心に介入をしていき、その中で『個人因子』や『環境因子』と同列な一つの要素として『心身機能』も加味していくという考え方です。
もちろん、病院でのリハビリでも後者の視点で介入されている方も大勢いると思います。
『機能vs活動』なんてテーマはよく耳にします。
そして、どちらが良い・悪いでは無いと思いますが、訪リハに限れば『機能』から入ってしまうと、越えられない壁にぶつかってしまうとのことでした。
ちなみに僕の場合は、訪リハをしていることもあってか病院での脳血管リハや(一部の)整形オペ後リハは後者の視点で自然と捉えてしまいます.
ただ、整形オペ後の大部分を含めた入院・外来の運動リハに関しては前者の視点でとらえてしまいがちです。
文章にしてしまえば当たり前に感じてしまいがちですが、頭では分かっているのと、実際に訪問で後者の視点になれているかというのは違うと思います。
現に、講演された先生自身もこの『越えられない壁』に何年もぶつかってしまったそうです。
特に理学療法士は機能面へのアプローチが得意であったり、そういう勉強会に精力的に参加されている方々であれば尚更、知らず知らずの内に『機能に重点を置いている自分』に戻ってしまうことも多いのではないでしょうか?
次回に『対象者を生活者と捉え、その人らしい生活の質の向上を行う個人と環境の関係性に働きかえるアプローチ』に関して学んだことを、もう少し掘り下げて書いてみます。
私の何かが変わらなければ情報ではない
『対象者を生活者と捉え、その人らしい生活の質の向上を行う個人と環境の関係性に働きかえるアプローチ』を考えた場合に、以下お3つが重要となってくるとのことでした。
①生活者として捉える
これは前回の冒頭に書いた今回の講演の核となる『脳卒中片麻痺患者』ではなく『脳卒中片麻痺になった○○さん』として捉えるということです。
②その人らしい生活の質の向上
これは文字通りですが、必ずしも『その人らしい生活』=『身体機能の再獲得』にはなりません。
もっと広い意味での『自分らしい生活の再建』ということです。
要は『生活機能』とは『心身機能』『活動』『参加』が相互関係になっていて、『心身機能』が低下していても、『活動』『参加』が向上することで、『その人らしい生活の再建』につながることもあるということです。
ちなみに『参加』とはICFでも解釈が整理されていないとのことですが、家庭や社会役割を果たすことを言うようです。また、『主体的に』その人が取り組んでいることも当てはまるようです。
これらの事から、『新聞を毎日読む(日課)』や『絵を書く(趣味)』から、『大切な家族としての存在・居ることで周りに元気を与えられる存在(家庭での役割)』まで様々です。
この『参加』の概念は重度障害者にも応用できる概念で、
例えば寝たきりになってしまい「生きている意味がないし死にたい」と仰るような方でも『あなたがそこに存在してくれているだけで、(何もしなくても)家族が幸せになれる』ということを説明して、本人がそのことを自覚できたのであれば(これが重要!)、それは『参加(家庭での役割)』が出来ているということで、自覚していない時に比べれば『自分らしい生活の再建』に繋がったことになります。
ここまで考えてくると、心身機能からはかなり外れている事ですし、(病院内のみで勤務している人からすると)理学療法士・作業療法士っぽくないと思われる方もいるかもしれません。
③個人と環境の関係性に働きかける
機能への働きかけも大切なのですが、それと同等あるいはそれ以上に個人因子や環境因子に着目していくということです。
※個人因子の評価としては『その人となり』を知ることが大切のことでした。
『その人となり』とは、性別・年齢・出身地・家族・家族との関係性・戦争体験・喜怒哀楽体験・趣味・関心事・性格・宗教・武勇伝・愛読書・収集品など、要は自分の家族や友人に関して当たり前のように知っているのと同様に、その人を形成してきた様々な事に多面的を知ることが大切だということのようです。
訪問リハビリというのは、本人の意志とは関係なくケアマネや家族の意向で開始することも多々あります.
また、本人にとって病院はアウェーですが自宅はホーム(理学療法士・作業療法士の場合は逆)なわけで、リハに意欲的でない方はその思いをストレートにぶつけてきます。
そうなった時にはまず本人との信頼関係が築かれなければならないので、『その人となり』の把握は非常に重要になってくるわけです。
また、 これらを知っていることで、それが『活動』や『参加』への介入の重要な糸口になってきます。
例えば、『起きると体の節々が痛くなるから』と食事以外は寝たままで過ごしていた方に対して、ジャニーズの堂本光一が好きということが分かり、ネットで写真をいくつも印刷して持っていきました。そして切って貼ってで作品を作ってみないかと提案したことが糸口でどんどん生活機能が向上していった例があります。
あるいは、花や写真撮影が好きだったという方に対して、片道車で30分かけて植物公園へ移動して可能な限り自発的に写真撮影をしてもらうと、それが糸口となり信頼関係が生まれてリハビリに関して耳を傾けてくれるようになったというケースもあります。
時間的な問題があって何度も実施出来ない介入方法ですが、一度実施するだけでも理学療法士・作業療法士への向き合い方を変えてもらえる介入方法は貴重だし、する価値があると思います。
私が担当した女性の利用者さんは、割と花の話題にのってきてくれることが多く、上記であったり一緒に鉢へ花の苗を植えるなどの訪問リハビリがターニングポイントになった例が結構ありました。
そして、『その人となり』を聞き出した時に一番肝心なことは、その後に聞き出した単なる『ニュース』の中から『情報』を発見するために試行錯誤したり、『ニュース』を『情報』に変えて利用したりするにはどうすれば良いかと悩み尽くすことだと思います。
関連記事⇒『私の何かが変わらないような“情報”は情報ではない』
これらを発見してしまえば何てことないのですが、これらの『ニュース』の中に貴重な『情報』となりうるものが埋もれているのを意外にも見落としてしまっていることが多いです。
本当に悩み尽くした挙句に『えっ こんな単純な事で良かったのか!』なんてことはよくあります。
また、環境因子の評価に関しては、もちろん住環境などの評価は重要ですが、『家族』の評価も非常に大切になってきます。
少ない回数の訪リハで成果を上げるためには『家族』は切っても切り離せない存在であり、本人と家族の関係であったり、リハに協力的かどうかであったりは非常に重要だと思います。
中には、「お母さんには元気になってほしいけど、私たちは何もしたくない」というスタンスのご家族もおられます。
病院でいう看護師や介護士に気軽に依頼するような日常での介入を、ご家族にもお願いするわけですが病院のように一筋縄ではいかないということになります。
そして、こんなケースでは、ご家族の行動変容の可能性も含めて評価・介入していく必要があります。
いうのは簡単ですが、隣近所の家族喧嘩の仲裁へ入るがの如く、最初は「さてさて、どうしたものか・・・」と頭を悩ませるところから始まります。
どこまで他人が踏み込んで良いのかとも考えます。
もちろん、『この辺は強く主張しよう』とか『この辺りは根気強く言っていこう』など試行錯誤したものの、結局ご家族に何の変容も認められなかったことも多くあります。
こういうのって、臨床経験を積むことでスムーズに解決策が見つかるようになるものなのでしょうか?
人生経験をつ積めば見えてくるものなのでしょうか?
あるいは一生悩み続けるしかないのかもしれません・・・・
※このブログでは『機能』の事ばかりを書いていますが、『機能』とは別次元な要素の重要性というのを、訪問リハビリに携わるほどに実感してしまいます。
※そして、病院では小さなことにしか目を向けれていない自分に気づかされることも多いです。
障害の受容って何だ??
講演された先生は、理学療法士から以下のような質問をされることも多いとのことでした。
「脳卒中の患者さんのところへリハビリで行っています。機能的にプラトーになりました。今後訪リハは継続すべきでしょうか?(あるいは)どうすれば終了できますか?」
その際に、先生はこう答えるとのことでした。
「プラトーになったのは患者さんではなく、担当しているあなたです。患者さんの立場になってもう一度評価して悩んでください」
そのこころは????
決して、身体機能が本当にプラトーか再評価てみなさいといっているのでは無いのです。
決して、あなたの技術が未熟だからボバースでもPNFでも勉強しなさいといってるわけでも無いのです。
単純に、視野を広げて考えてみて下さいと仰っているだけなのです。
心身機能・活動・参加それぞれで、目標(ゴール)の限界と拡がり異なるとのことでした。
『機能的』がプラトーであったとしても、『活動』に視野を移すとまだまだ可能性が広がっています。
『活動』がプラトー(先生はスーパープラトーと命名されていましたが)に達したとしても『参加』にはまだまだ可能性が広がっています。
また、『参加』に関してプラトーは存在しないとのことでした。
少し話題を変えて、
脳卒中片麻痺の方で、退院後の訪問リハビリでも病院の延長としての機能訓練を望まれる方のお話です。
最初のカンファレンスで「リハビリに対する希望を教えて下さい」みたいなことをアバウトに聞くと、
「昔のように手や足を動かせるようになりたい」
「この(下肢)装具をさっさと外して歩けるようになりたい」
「病院で頑張ったから自分で脇を少し開けるようになった。この調子で腕を動かせるようになりたい」
などなど、機能に関する希望を持たれている方は多いです。
もちろん機能訓練は重要ですが・・・・・・
そして、そういう方が生きる希望につなげられる予後予測とその説明の一例として下記の様な内容を提案しておられました。
「『心身機能』の予後としては○○と一般的には言われていますが(もちろん断定的な言い方はしない)、『活動の予後』としては、生活動作を工夫したり、環境をうまく整えることで、できることは増えます。
また、『参加』の予後としてはあなたの気持ち次第で、自分らしい生活を創ることが出来ます。
だから自分らしい生活を再建するリハビリに取り組んでみませんか?」
・・・・っといった声掛けにより徐々に『機能』への固執からのパラダイムシフトを図っていくことも重要との提案です。
プラトーに達している方対して機能面だけで説明をしようとしてもはぐらかす内容であったりマイナスな言葉しか出てきませんが、『活動』や『参加』の可能性も強調することで今持っている希望のエネルギーを良い方向へ流すことが出来るとのことでした。
更に話が逸れますが、機能がプラトーにほぼ達している方の上記のような発言に対して、 『障害の受容が出来ていない』などという表現を使うこともあるのではないでしょうか?
ですが、先生によると『障害の受容』というのは間違いとのことでした。
発症後にはショックとともに多くの不安や悩みを抱えます。
↓
ですが、入院中に回復への努力と、それに比例するような機能回復により前向きになれます。いずれは元の状態に戻れるのではという希望も出てきます。
退院する際も不安が入り混じりながらも『乗り越えよう』という前向きな気持ちがあります。
↓
しかし家に帰ると、理解していたものの以前の様に体が動かない現実を再認識させられたり、入院中ほど回復していかない機能に直面して、気持ちが大きく後ろ向きになります。
↓
適切な訪問リハビリにより前向きな気持ちを再度取り戻します。
↓
アクシデント(転倒など)・ショックな出来事(家族の不幸など)により後ろ向きな気持ちになります
↓
再度適切な介入で前向きな気持ちを取り戻します
↓
再度後ろ向きになるような出来事が起こります
↓
・・・・・・・・・・・・・・・
っといったように気持ちの変化は徐々に安定してくるものの、必ずしも時間の経過とと比例して上向くというものでは無く、ノコギリの刃の様に死ぬまで上下していくものであるとのことです。
そして、セラピストや当事者によるフォローが後ろ向きな状態の時には重要になってくるとのことでした。
ちなみに障害受容に関しては、書籍:リハビリテーションの思想にて以下の様に書かれてあります。
自己の隠れた価値に目覚めるという、より高い価値観への転換は、障害者本人だけでなく、その家族にも必要なことであり、また当然我々非障害者にとっても必要なことである。
障害者や家族におけるそれは「障害の受容」と呼ばれる。
受容とはしばしば「あきらめ」と間違えられるが、それとは全く異なり、「障害の存在が自分の人間としての存在価値を何ら損なうものではない。
障害があっても自分は自分であり、生きる価値を持った存在だ」という、価値観の転換を達成することであり、それによって人は「ふっきれた」心境になり、自己決定権を自覚して、再び積極的に現実の種々の問題に立ち向かっていけるようになる。
このように障害の受容とはあきらめどころか、むしろ障害の心理的・実存的な克服なのである。
日本における『障害受容』という用語には、社会的受容(社会的な要因群)への馴染みが少ない点が問題視されており、海外では
『障害受容(acceptance of disability)』という用語(概念)よりも
『障害適応(adaptation of disability)』という用語(概念)を用いることの方が多くなっているらしい。
障害受容に関しては、以下の記事でも深堀しているので興味がある方は合わせて感らにて見てほしい。
リハビリで知っておっくべき『障害受容』って何だ? 心と体は繋がっているよ!
リハセラピスト(理学・作業療法士)としての不安や悩み
話が長くなってしまいましたが、今までの内容全体を通して言えることは、「訪問リハビリにおいて理学療法(障害の評価・徒手療法・運動療法・物理療法・装具療法など基本的動作能力を回復させるための方法)だけを提供するというのでは、自分の中に壁が立ちはだかってくる」ということです。
人の生命や生活・人生を支えるには理学療法(or作業療法)の専門性だけでは足りないというわけです。
生活者としての生活活動再建や自己実現のある人生を促すための方法を、理学療法(or作業療法)も含めて提供するのが訪問リハビリであるのことでした。
つまり、訪問リハビリにおいては『理学療法士』『作業療法士』ではなく『理学療法・作業療法を核としたリハセラピスト』として関わる姿勢が大切とのことでした。
中には理学療法・作業療法に固執する方もおられるかもしれません。
ここまで書いてきて、『おまえは理学療法士では無い』と言われてしまうかもしれません。
『機能的にプラトーになれば、ダラダラと関与せずにリハビリは終了だ』との意見もあるでしょう。
それこそ昨今の『理学療法士(or作業療法士)の専門性をアピールしていこう』というのとは違った考えかもしれません。
ですが・・・・・・・・・
国民に求められている訪問PT像(病院PT像ではなく)は、
①病院リハの続きとして、正常を目指して機能訓練をしてくれるセラピスト(治療者)
②障害はあっても自分らしい生活を広げてくれるセラピスト(コーディネーター)
のうち、はたしてどちらなのでしょう?
理学療法の専門性をもっとアピールしていくことに賛同している一方で、訪問リハビリに関して言えば、理学療法への固執ではなく『リハセラピスト』でありたいとも思い悩む自分がいます。
終わりに
冒頭にも述べたが、この記事は2010年に投降した複数の記事を組み合わせて作成したものである。
現在(2016年)における私の考えは必ずしも2010年とは同じではないし、介護保険制度の遷延もあって、同様な考えが通用しない側面もある(例えば、介護保険の財源上の問題で、訪問リハビリは卒業することを前提となってきている)。
一方で、今も変わらず私が大切にしている要素も多く含まれており、記事を読み返すことで、昔感じていた不安や悩みが懐かしく蘇ってくる。
その様なことから、あえて編集は最小限にとどめた上で繋ぎあわせた記事にしている。
今も昔も訪問リハビリに取り組むうえで、「この人にとって最善な取り組みは何なのか?」と悩む私がここにいる。
訪問リハビリにおける介入方法に絶対的なものは存在しない。
介入方法は無限大に存在するのだ。
であるからこそ、悩んでしまう。
この記事が、訪問リハビリに取り組み始めた人たちの不安や悩みに関する解決のヒントに、少しでも寄与できれば幸いである。
訪問リハビリを考える上ではICF(生活機能分類)による「人間を包括的に捉える視点」は重要になってくる。
以下のリンク先に、ICFをまとめた記事があるので、興味があればこちらも参考にして、問題解決に役立てて頂きたい。
理学・作業療法士が知っておくべきICFのまとめ一覧
また、訪問リハビリで難渋し、考えさせられた(勉強を指せてもらえた)症例についてのエピソードも含めた記事としては以下がある。