この記事では、理学療法をする際の思考としても有名なピクチャーコンセプトについて解説していく。

 

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像の寓話

 

ある日、六人の盲人が象を触ってその正体を突き止めようとしていた。

 

  • 一人の盲人は象の鼻に触り、「象とはヘビのようなものだ」と言った。
  • 二人目の盲人は象の耳に触り、「象とはうちわのようなものだ」と言った。
  • 三人目の盲人は象の脚に触り、「象とは木の幹のようなものだ」と言った。
  • 四人目の盲人は象の胴体に触り、「象とは壁の様なものだ」と言った。
  • 五人目の盲人は象のしっぽに触り、「象とは槍のようなものだ」と言った。
  • 六人目の盲人は象の牙に触り、「象とは槍のようなものだ」といった。

 

それから、六人の盲人たちは長いこと大声で争い、それぞれが自分の意見を譲らなかった。

 

視野を広げ、多面的に物事をとらえよう

 

盲人はそれぞれが触ったのは、象の身体の一部に過ぎない。

 

それにもかかわらず、それぞれの盲人は、自身の主張こそが正しいと譲らない。

 

その一部分こそが象の正体だと思い込み、現場は大混乱に陥っている。

 

私たちはこの盲人達を笑えない。というのも、私たちは物事や人物の一部分だけを理解して、それが物事や人物のすべてだと錯覚してしまうことがままあるからだ。

 

しかし、神ではない人間が把握できるのは全体の一部に過ぎないのだから、「木を見て森を見ず」状態に陥るのは、ある意味仕方ないともいえる。

 

それでも、できるだけ一面的にならずに、多面的な視点で物事や人物を捉えること、すなわち視野を広げることを意識する必要でがある。

 

 

「皆が間違っている」とも言えるし、「皆が正しい」ともいえる

 

 

前述した例は「盲人達は、一つの側面しかとらえることが出来ておらず、皆間違った解釈をしている」という意味であり、教訓としては以下になる。

 

奢り高ぶらず、もっと視野を広げて考えよう。

 

しかし一方で、この寓話からは全く別の解釈をすること可能であり、具体的には以下になる。

 

解釈:

六人の話が食い違っているのは、それぞれが異なる部分を触っているからであって、みんなが触っているのは同じ象である。

つまり、真実(像)を表現する方法が異なっているだけであり、真実(像)が異なっているわけではないということだ。

 

したがって、誰か一人が正しくて他の五人が間違っているのではない。また、全員が間違っている訳でもない。

 

全員が正しい』のだ。

 

そう考えると、この寓話は、異なる信念を持つ者たちが互いを尊重して共存するための原則を示していると言えないだろうか?

 

 

リハビリ・理学療法で考えてみる

 

例えば、腰痛患者に対して「伏臥位で腰部多裂筋に対するマイオセラピー(トリガーポイントへの押圧・指圧)」を施行すると、その場で腰痛が改善したとする。

 

すると施術者は「筋へのアプローチで改善したのだから、筋・筋膜性腰痛なのだな」と断定してしまうかもしれない。

 

①:

自身は筋が問題だと思っており、実際に筋に対してアプローチして改善が見られたのだから、この思考は決して間違いとは言えない(真実といえる)。

 

②:

しかし、腰痛患者の80%は非特異的腰痛(原因不明な腰痛)であり、もしかするとセラピストが「患者伏臥位で多裂筋に腹側方向への押圧を加えたこと」により、(意図せずして)分節的な腰部椎間関節のコンバーゲンス⇒椎間板への刺激が加わり、腰部前方ディレンジメントが改善された可能性もある(こちらが真実かもしれない)。

 

③:

あるいは別の日に、別のセラピストが全く別のことをしても改善されたとするならば、他にも真実が隠されているのかもしれない。

 

 

上記は、理学療法あるあるであり、以下の二点を教訓として与えてくれる。

 

  • 自身の思考が真実ではない可能性

    ⇒安易に断定せず、常に謙虚に、広い視野を持とうとする努力

 

  • 物事は多面的であり、自身の解釈だけが唯一の正解ではない可能性

    ⇒様々な意見・思考にも(批判的思考を常に働かせつつも)に耳を傾ける柔軟さ。

 

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以下の記事では、ペインリハビリテーションを例にしてピクチャーコンセプトを解説している。

 

併せて観覧すると理解が深まるかもしれない。

 

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