※今回の『理学療法士・作業療法士の不安や悩み』は、シリーズで掲載している。

 

※初めて観覧する方は、『理学療法士・作業療法士が知っておくべきプラシーボ効果・ノーシーボ効果』から観覧することをお勧めする(最初から読んで頂けていることを前提とした記事になっている)

 

※ここでは真っ当な徒手療法の刺激も紹介していますが、この刺激を用いる際の考えは『海外における反応重視型な学派』寄りな考えを基にしている。しかし、『海外における総合重視型な学派』寄りな考えも重要であり、実際はどちらの良い点も考慮に入れながらの介入という事になる。

 

※気功やエネルギーといった表現が出てくるが、これは身体の神秘的側面に対して様々な解釈が存在していることの比喩に過ぎない点に注意してほしい。

 

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目次

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理学・作業療法士の不安や悩み:はじめに

 

ある治療家(理学療法士・作業療法士以外も含む)が声高に、以下のように訴えていたとする。

 

「気功では花粉症は治せるが鼻炎は治せない。エネルギーで血圧は下げれるが、血糖を下げるのは難しい。しかし私はついに、気功とエネルギーを融合したハイブリッドテクニックを編み出した。これなら、鼻炎も血糖も下げれるし、気功やエネルギーなどのお遊びとは根本的に違うのだ」

 

それが本当であるならば、「結果が全て」という臨床的側面において、誰も彼を批判すべきではない。

 

それが私のスタンスだ。

※もちろん、治せないのにホラを吹いて、人を騙してお金をふんだくるのは犯罪だが。

 

他方で、「これらの結果は、気功とエネルギーを融合させたからこそ出せたのだ。あんたも、そう思うだろ?」と同意を求められたなら、
学術的側面において、「気功でもエネルギーでもプラシーボでもなく、なぜハイブリッドだと断言できるのか?」という根拠を示してもらわなければピンとこないというのも、私のスタンスである。

 

もしかすると、気功・エネルギーを用いている人達は、上記の治療家へ良い印象を持たないかもしれない・・・

 

あたかも、自分たちの概念が劣っているかのような表現をしているからだ。

 

「何がハイブリッドだ」
「気功とエネルギーは全く別物なのに、どうやったら融合できるんだ」
「口から出まかせ言いやがって」

などと憤る人がいるかもしれない。

 

しかし身体における神秘的・崇高的・万能的な側面は、その人の価値観によっていかようにも解釈が可能となる。

 

したがって、「気功・エネルギーは許せても、ハイブリッドは許せない」などの都合の良い解釈は出来ない

 

そして、身体における神秘的・崇高的・万能的な要素として、医療現場ではプラシーボ効果というものが認知されている。

 

つまり、もし仮に自然治癒力・ホメオタシス(恒常性)に影響を与えるもののうち、自身の概念による作用がプラシーボ効果とは全く別物なのだと断言するならば、その根拠を示してもらう必要がある。

 

そうしなければハイブリッドと同様に、(信じたくても)信じることが出来ないというのが学術的側面における現実だ。

 

前回同様に初っ端から話がそれたが、前回の記事を引き継いだ内容を掲載していこうと思う。

 

『エビデンスが希薄な概念』はプラシーボ効果orそれ以外の要素のどちらが優位なのか、他者からはアヤフヤになっていると感じることがある。

 

にも関わらず、自身のメタ認知による批判的思考が十分に機能せず、ひたすらその概念を信じて、技術向上に励むこともあると思われる。

 

しかし、いずれかの段階で疑念・不安・悩みを抱き初めて、以下の選択を迫られる時期が来ると思われる。

 

①このまま、団体が主張することを信じて突き進むのか

②団体と決別するのか(あるいはメタ認知を働かせ、多面的な思考を持って、割り切って関わっていくのか)

 

ヤフー知恵袋における投稿者の不安や悩み

 

不安や悩みを抱えて、前述した選択を迫られている人を「ヤフー知恵袋」で見つけたので、その記事を基に考察をしていく。

 

記事は以下の通り。

私は理学療法士をやらせてもらってます。5年程前にオステオパシー治療に出会い、感動と直感から習い始めることを決断しました。

 

当初は真新しい知識や技術に触れ、毎日が楽しくて仕方がないくらい臨床に没頭していました。週末といえば高額なセミナーに参加し、何万円もする教材でも迷わず買いました。

しかし、2年ほど前から自分の感覚に迷いが生まれ、徐々に治療結果にも影響し始めました。

 

迷いが生まれた原因は自分が信じ、得意としていた手法をある人物から違和感を指摘されたことがきっかけなように思います。

 

それからだんだんと自分が満足する結果を感じられないようになり、今では何をやっても上手くいく気がしなくなってしまいました。

 

まさにどつぼにハマった状態です。 自分の本当の目標や目的は何であったのかわからなくなりました。

 

最近は家庭のこともありセミナーにも参加できていないのもモチベーション低下の理由なのかもしれませんが。

 

こんなとき、どのように起動修正したらいいのでしょうか?どなたか助言して頂けないでしょうか? 宜しくお願い致します。

 

この記事は単純に、徒手療法を学んでいる理学療法士・作業療法士の不安や悩みとして「よくある話」だと思ったので引き合いに出したに過ぎない。

 

したがって、オステオパシーを否定しているわけではない。

 

内容に関しても、オステオパシーの団体はいくつもあり、一概に善し悪しが言えない点にも注意が必要だ(哲学は同じはずだが、他団体を批判し合って、自分達の優位性を声高に主張していることもある。この現象はどこの世界も同じいうことなのかも知れない)。

 

更には、この記事自体にメタ認知を働かせた場合、(万が一の可能性として)不安や悩みを装ってオステオパシーを陥れようとする人の自作自演という可能性もゼロとは言い切れない。

 

例えば、「高額セミナー」・「何万円もする教材」といったネガティブな表現は蛇足な気がする(このような表現を使わずとも十分に想いは伝わる)。

 

※まぁ、投稿者なりに団体への不信感を少しでも表現したかっただけかもしれませんし、(後に記載しますが)投稿者はベストアンサーに「オステオパシーと肯定的に向き合うよう促す内容」を選んでいることから、自作自演の可能性は低いとも思う。

 

※この様に考えてもらえる事もみ越した上でベストアンサーに選んだともと解釈できるが・・・

 

 

「不安・悩み」に対するベストアンサー

 

前回の記事でも示したように、「エビデンスが希薄な概念」を学んでいると、メタ認知による批判的思考が働かなくなる危険性があある。

 

更には、周囲にその概念を肯定してくれる人が大勢いると、ますますメタ認知は働かない。

 

そうなってくると、自身の思い込みを無くしてフェアに考えたり自己暗示を解いたりするのは自分だけでは不可能で、他人の影響が必要となってくる。

 

そして、投稿者に影響を与えるきっかけを作ったのが、文中に登場する「ある人物」であり、その人物の「違和感」という指摘が、投稿者にメタ認知を作動させることにつながる。

 

通常は何人もの人に指摘されなければ自己暗示は解けないと思われますが、よっぽど「ある人物」は投稿者にとって特別な存在だったのかもしれない。

 

兎にも角にも、毎日が楽しく、高額なセミナーに参加したり、何万円もする教材(DVDか何かか?)を買っていた彼が、岐路に立たされる。

 

はたして、投稿者は悩んだ末の決断は、どの様なものだったのだろう?

 

ちなみに、投稿者がベストアンサーにした解答は以下になる。

 

オステオパシーをしています。オステオパシーの勉強をしていると、迷うことばかりですよね。

 

ご存じの通りオステオパシーは、深い解剖学的知識と繊細な触診力を必要とします。

 

それを維持向上させようと思うと、勉強が進めば進むほど迷いが出てきます。質問者様が迷いをお感じになるのももっともだと思いますし、また迷いのない人はいくら勉強しても上達しないのではないでしょうか。

 

私なんか、日々治療をしながら迷いっぱなしで・・。でもそれが自分自身を高めるモチベーションではないかとがんばっています。

 

大丈夫。迷いは一層の高みを生み出します。

 

一息ついて、もう一度初心から始めてみるのも一考ではないかと思います。

 

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ヤフー知恵袋投稿者の不安・悩みに対する私見

 

解答者は大まかに以下の点を伝えようとしています。

 

①オステオパシーの自己研鑽を、すればするほど悩みや迷いが出てくるのは当然であり、悪いことではない。

 

②自分も迷いっぱなしだが、それがモチベーションの向上に繋がっている。

 

③少し気持ちを落ち着かせた上で、もう一度初心に戻ってオステオパシーと向き合ってみてはどうか。

 

たしかに物事の真理を追求しようと思えば思うほどに、無知を痛感させられることはよくある。

関連記事⇒『ブログ:勉強するほど無知になる

 

しかし、投稿者が「ある人物」に指摘された「違和感」とは、モチベーションの向上に変換できる類の指摘では無かったのではと感じる。

 

確かに回答者が言っている類の指摘であれば、「まだまだ、自分の技術が未熟だったのだ」「指摘されないよう、もっと技術を磨かねば」というモチベーション向上に繋がっても不思議はない。

 

しかし投稿者は「違和感」を指摘された結果、「何をやっても上手くいく気がしなくなってしまった」「 本当の目標や目的は何であったのかわからなくなってしまった」と嘆いている。

 

つまり、その違和感は「その概念に対して疑念を抱かせてしまうような何か」であった可能性も十分あるのではないだろうか?

 

もちろん日々の自身の精神状態にはムラがあり、「何をやっても上手くいくと感じる日」もあれば「何をやっても上手くいかないと感じる日」などがあるかもしれません。そして、それが数日、数週間単位で入れ替わることもあり得る。

 

ただしこのケースにおいては、『2年ほど前から自分の感覚に迷いが生まれ、徐々に治療結果にも影響し始めました。。。。。。だんだんと自分が満足する結果を感じられないようになり、今では何をやっても上手くいく気がしなくなってしまいました』と(紆余曲折はあったかもしれませんが)2年ほどかけて右肩下がりに起こっている出来事であり、本人の一過性な精神的問題のせいだけにしてしまうのは強引な気がする。

 

そして、もしこの仮説が正しいのであれば、この解答では投稿者の不安や悩みは解消されていないと思われる。

 

※つまり、この回答をベストアンサーにしたのは、親身に相談に乗ってくれようとした事への感謝や、団体を信じたいという一縷の思いなどからではないかと個人的には思っている。

 

※ただし、この様に思考するチャンスがあったという事は、どの様な道を選ぶにしても、さらに成長した自分につなげるための良い出来事と捉える事も出来るのではとは思う。

 

 

セミナーに通わなければ、治療成績が下がるのか??

 

質問の投稿者はモチベーションの低下の原因の一つに、「セミナーに参加できていないこと」を挙げている。

 

確かにセミナーへ参加しないことによって、その概念を学ぼうとする熱は冷めてしまいやすいという側面は、無きにしも非ずだろう。

 

しかし、よっぽどその概念に依存した治療を臨床で展開していない限り、「臨床へのモチベーションが下がる」であったり、更には「治療成績までが下がる」などということは起こらないのではないだろうか?

 

もちろん、投稿者のように「誰か一人に違和感を指摘された」からといって、
「治療成績が下がる」だとか、「今では何をやっても上手くいく気がしなくなった」などが長期にわたって起こり続ける事も、一般的ではないと感じる。

 

確かに自己研鑽は重要で、特に技術的な自己研鑽によって治療成績が向上することは有り得るが、セミナー依存症に陥って、前述した禁断症状が起こってしまうことなど、一般的ではない気がするという事だ。

 

「エビデンスが希薄な概念」におけるセミナーへ参加する意義は、上記の要素よりもむしろ、自身の概念に対する信念を強固なものにするための「儀式」的な側面のほうが強いのではと思われる。

 

当然、徒手療法に共通した「熟達した操作・タッチの方法」は存在するため、当初は「一般的に言われているような技術向上」の側面はあるかもしれないが、3年も4年も通っていると、むしろ「儀式」としての意味合いが強くなるのではということだ。

 

※そして、この儀式が疎かになることが、信仰心の薄れ、治療成績の低下へと繋がる側面もあるのではと思われる。

※この点に関しては、もう少し掘り下げて次回の記事に書かれてある。

 

そして、もしも今後はエビデンスが希薄な概念と割り切って関わっていこうと思うなら、(そして、あなたの徒手療法の技術的なベース部分が充実しているのなら)、むしろ全てのセミナーから一度距離を置くことのほうが重要となってくるかもしれない。

 

セミナーは時として受け身になりがちであったり、情報過多になりがちだったりという側面もあるので、今ある材料を大切にしつつクライアントの身体と対話することに重きを置いたり、

 

今まで学んできたことから一歩距離を置いてメタ認知を働かせながら、俯瞰的に物事を眺めてみることも大切なのではと感じる。

関連記事⇒『ブログ:投資家ウォーレンバフェットから学ぶ「正しい方向での努力とは」』

 

 

「エビデンスが希薄な概念」との向き合い方

 

大分、この記事の前半が長くなってしまったが、これ以降の記事が、

 

冒頭の選択で「団体と決別する(あるいはメタ認知を働かせ、多面的な思考を持って、割り切って関わっていく)」を選んだ際のアドバイスを含めた内容となる。

 

こちらを選択したのであれば「臨床推論しやすい概念を活用しながらの徒手理学療法の展開」ということになるが、

 

この際の思考とは全く切り離し、「エビデンス(科学的根拠)が希薄で、別のコンセプトとの整合性が取りにくい概念」を『割り切って用いてみる』のも良いと考えている(まぁ、この点に関しては、賛否両論あるかもしれない)。

 

仮に、哲学だなんだと自身の概念のみで完結させてしまうことを推奨するような(概念ではなく)団体が提唱するような技術であっても、割り切って用いることが可能なのではと感じる(多分)。

 

私自身も、「エビデンス(科学的根拠)が希薄で、別のコンセプトとの整合性が取りにくい概念」を用いて、好奏する事はあったりする。

 

この様な概念を用いることにより、単に触れている程度なソフトなタッチでありながらもクライアントがリラックスして施術中に寝てしまったり、どんどん筋緊張が落ちていったり、頭痛が軽減したりという事が起こったりする。

 

そして、これは重要な点ですが、この様な「エビデンスが希薄な概念を用いる際」は、「その時だけで良いので、その概念の崇高さ・神秘さ・万能さ」を本気で信じながら行うことが大切となってくる。

 

言い換えるなら、これまで何度も口を酸っぱくいっていた『臨床推論にとって重要な批判的思考(メタ認知)』を絶対にその概念に向けてはならないという事だ。

 

そして、上記のように自身の思考を切り替えて介入していると、これら概念が提唱する神秘的・崇高的な存在に気づくこともあるかもしれない(個人差はあるだろうが)。

 

もちろん、自身の思い込みは、それらの存在を感じるための必須条件であると同時に、単なる思い込みの域を出ない。

 

そのため、本物かどうかも分からないし、証明の仕様もない。

※例えば、神の存在を疑っている者が、神の存在を感じにくいのと同である。

 

したがって、単なる思い込みと言うことも有り得るし、だからこそ声高にこの概念の優位性を叫ぶことも無い。

 

そして、俯瞰的にメタ認知を働かせるからこそ、この様な存在するのかしないのか分からない、プラシーボ効果とどう違うのかも分からないような概念すらも、「だって実際変化が起こっているではないか」という臨床的側面における事実を基に、一つのツールとして冷静に用いる事も可能となる。

 

重複するが、臨床推論する手段とは切り離してエビデンスが希薄な概念を用いる際は、その概念を全面的に信じてあげたほうが良い場合があるということだ。

※この点に関しては、次回の記事でもう少し掘り下げて解説していく。

 

また、これらを一つのツールと割り切ってうまく活用出来てくるならば、「科学的根拠が希薄な概念」と「科学的根拠のある概念」を自然と融合できるようになっているかもしれない。(これは一見、今まで記載したことと矛盾するようだが、分かる人には分かると思う。ただ、これは言語化出来る領域を逸脱してしまうため、ピンとこない人はスルーしてほしい。そして、無理に理解しようと考え込まないほうが良いと思う。理解しなくても全く問題ない要素であり、こんな事の理解に努力を注ぐなら、もっと有益な要素に注いだほうが健全だと思われる)。

 

このカテゴリーでは、「多面的思考をもって、エビデンスが希薄な概念も割り切って活用していく」という点に関するヒントを掲載したつもりだ。

 

ここから先は不安や悩みの末に、「団体と決別する(あるいはメタ認知を働かせ、多面的な思考を持って、割り切って関わっていく)パターン」を選択したと仮定して、もう少し臨床推論にフォーカスを当てたアドバイスを記載していく。

 

※「エビデンスが希薄な概念を信じて、その道を邁進していくパターン」を選択した場合のアドバイスは次回の記事に記載している。

 

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メタ認知を働かせ、臨床推論による理学療法に切り替える

 

臨床推論を重視した徒手療法に切り替える判断をしたのであれば、メタ認知により各々の特徴を浮き彫りにしつつ、様々な介入を適時用いていくことになる。

 

その際に、今まで学んできた事が役に立たないということは無い。

 

熟達したタッチや触診能力は、どの様な徒手療法を学ぶにしても有用で、解剖・生理・運動学の知識も同様だ。

 

また、熟達したタッチや操作方法は、どの様な徒手療法を行う場合においても、良質なプラシーボ効果を加味してくれる可能性を秘めている。

 

もし実技系のセミナーへ行きまくっていたなら、解剖・生理学といったベースの知識を技術として臨床実践へ落とし込める能力は充実している可能性があるので、まっとうな技術も学んでみて、それらをエビデンスとすり合わせてみたり、メタ認知能力を働かせたりするのはどうだろう。

 

その際に重要なのは、「いかに最短距離で適切な徒手的刺激に到達できるか」というよりも、「評価をじっくりおこなって丁寧に仮説を立ててみたり、様々な刺激を加える事でそれによって起こる反応を吟味してみる」といった点だと感じる。

 

例えば、ある徒手的刺激により症状が改善された際、
「その人に、症状が増悪すると仮説立てている刺激を加えても、その改善は持続するのか」とか、
そこから更に「手法は別でも同じ刺激を意図したアプローチを行うとどうなるか」とか、
各々の段階で用いた刺激でクライアントに異なった反応が現れるとするならば、「それは何故だろう?」とか、
色々吟味しながら実施したほうが、結果的には推論能力、問題解決能力も高まるのではと個人的には思っている。

関連記事⇒『徒手療法初心者の心得

 

 

また、メタ認知を働かせることで、問題解決の手段は無数に存在することにも気づくと思う。

 

例えば前述した様に臨床推論・吟味した結果として、セルフエクササイズでも徒手と同等な効果が得られるものを発見できたとしたならば、それはクライアントにとって非常に有益な情報となる。

 

また、クライアントと二人三脚で反応を吟味して出した答えなら、そのエクササイズを継続してくれる可能性も高まる(その場で自身の症状の変化を実感している訳だから)。

 

もちろん、必ずしもこれで問題解決が図られた訳では無く、再来院時に「自主トレ、最初の2、3日は効果があったけど、それ以降は効果を感じ無くなっちゃいました」ということも当然ながら起こり得る。

 

そうなると、そこからまた

 

「なぜ自主トレが途中から効果が無くなったのか?」

 

「今回も前回と同じ刺激を加えれば同じ反応をが起きるだろうか?」

 

「もし同じ反応をが起きない場合、前回の機能障害が改善された結果として、別の機能障害が浮き彫りになってきているという解釈は都合が良すぎるだろうか?それを本人は、前回と同一の機能障害の結果として今現在の症状を捉えているだけな可能性はないだろうか?」

 

「私が効果ありという解釈を{痛みの発症頻度を10から5に減らすことができる}としているのに対して、クライアントの効果ありの解釈は{自主トレを繰り返すほどに痛みの発症頻度が減っていき、1週間後にはゼロになること}としており、にも関わらずゼロにならないことを{効果が無くなった}と捉えているのかもしれない。つまり、クライアントの効果が無くなったという発言は、必ずしも私の解釈と同じではないかもしれない。何をもって{効果が無くなった}と表現しているのか、もう少し話を聞いてみる必要があるだろう」

 

「そもそも、自主トレの方法が途中から雑になって、目的とした刺激が身体に入力されていないという可能性はないのか?」

 

などと思考しながら、問診や理学検査、試験的治療などを改めて実施していくことになる。

 

これらの介入は、臨床推論しながら、可能性を再度一つ一つ検証して、肯定したり、除外したりの試行錯誤で到達するからこそ価値があるという側面を持っており、
「また調子が悪くなりました」⇒「じゃあ、とりあえずエネルギー注入します」⇒「だいぶ良くなりました」といったプロセスとは異なった側面を持っている。

 

※とりあえず即自的な効果を出しておくという事は、その後の治療に対する期待感というリハビリ全体のプラシーボ効果を高めてくれる側面もあるため、これらの類が悪いと言っているわけではなく、単純に異なった側面を持っているということ。

 

 

コーピングスキルやセルフエフィカシーという視点

 

私は、徒手による刺激に関して、なるべくクライアント自身でも活用できる刺激に変換できないか考えるようにしている。

 

すなわち、自身でも痛みに関与できる術(コーピングスキル)を身につけてもらい、セルフエフィカシーを高めていくという考えだ。

関連記事⇒『コーピングスキルを身に着ける』 『セルフエフィカシーとは

 

そして徒手的な刺激のセルフエクササイズや日常生活場面での工夫への変換は、必ずしも「定型的な内容の指導」では無いことも多く、であるからこそ各個人に合ったエクササイズを探るための臨床推論が重要となってくる。

 

(その人が有している問題にもよりますが)メカニカルな要素の強い機能障害が原因であるならば、理学療法士、作業療法士の用いている徒手的な刺激をセルフエクササイズへ変換できないか模索することは重要だし、事実としてセルフエクササイズや生活指導で、徒手療法のもたらす効果に近づけることは可能となる。

 

もし「自然治癒力活性化」や「ホメオタシスの正常化」という言葉を拝借するのなら、これらを通して痛みと向き合える自信がついたり、不安が解消されるのも自然治癒力を高めることに繋がると思われる。

 

そして、これら人間が本来備えている神秘的・崇高的・万能的な用語は、コーピングスキルを身に着けることを含めた「セルフエフェカシーの向上」といった要素にも使われるべきだと思うのだ。

 

 

施術に抱く期待感は、時として施術への依存心も伴っていることがある

 

もし仮に、「セラピストや治療に対する期待感」がプラシーボ効果を作動するために重要な要素であるとするならば、それは「良くしてもらえるのではないか」「何とかしてもらえるのではないか」といった「○○してもらえる」という受け身の気持ちであることも多いのではないだろうか?

 

例えば、以下の様な発想だ。

 

「この薬は、きっと私の痛みを楽にしてくれるに違いない」

 

「この先生は評判が良いから、きっと私の満足いく治療をしてくれるに違いない」

 

そして、この気持ちに応えることは、本来の治療効果にプラシーボ効果を上乗せすることに繋がりることもある。

 

この意味で、長期的な効果は別として、「クライアントへ即時的な効果を実感してもらえる術を身につけているか」は重要だと思われ、実際に即自的効果によって臨床での凡庸性が高く、エビデンスの報告もある手法はいくつも存在している。

 

しかし、これらの即時的効果など諸々の要素によって信頼感を勝ち得た後は、その信頼感をもって、いかに「○○してもらえる」という発想から、「自分で○○することができる」という発想に持って行けるかが重要だと感じる。

 

ここで、再び「自然治癒の活性化」「ホメオタシスの正常化」という言葉を拝借するのなら、
自分の内側に存在するこれら神秘的・崇高的・万能的な効果を生み出すのはあくまでクライアント本人であり、
それを他者が発動「してあげる」ことも大切ではあるものの、
クライアントが自分で発動できるような状態にまで導いてこそ、自然治癒力・ホメオタシスを語れるのではといった発想もあって良いのではないだろうか?

 

その場所に行かなければ味わえない神秘的な体験があるものの、日常に戻ればまた痛みへの悩みや不安に苛まれ、また一瞬でも良いから神秘的な体験を受けにいくという施術への依存。

 

これは、自然治癒力・ホメオタシスの名を借りながら、結局はお金をむしり取り、悩み・不安などのストレスから更なる自然治癒力の低下・ホメオタシスの乱れへ繋る人を作ってしまう危険性があるということだ。

 

あるいは金銭的な面においても(無料で施術が受けれるならまだしも)高額な費用がかかる場合は、いくら神秘的な体験ができるとしても、「一過性な効果なだけな可能性があり、良くなる保証がどこにもないもの」にお金をつぎ込むべきかどうかの強烈な不安や葛藤を生み出す場合もあり得る。

 

あるいは高額な費用をふんだくっておいて「最初は一時的な効果だけだけど、続けることが大切だ。途中でやめたら、せっかくホメオタシスが正常化してきているのに、全てが無駄になってしまう」などと脅す行為は、もはやホメオタシスを正常化したいのか、それともホメオタシスを乱したいのか分からなくなってきてしまう。

 

その意味で、「他者に完全に依存するのか」「自分も積極的に治療に臨むのか」という点にフォーカスするのであれば、徒手療法によって依存を引き起こしかねない(理学療法士、作業療法士を含めた)セラピストよりも、ピラティスやヨガなどを含めたボディーワークのような「自身の能動性も促すような概念」の方が、自然治癒・ホメオタシスを謳うに相応しいのではと感じることもある。

 

※もちろんフェアに考えるとするならば、効果のない薬を飲み続けたり、一時的な鎮痛作用しかない痛みどめ注射(狙いは別の側面にあることもありますが)、「効いているのか効いていないのか分からないが、とりあえず物理療法しておかないと一日が始まらない」的なゲン担ぎ?も兼ねて電気をあてに来るなどの一般的な病院にもみられる共通した問題も見え隠れしているとは思う。

 

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次回に続く

 

ここまでが、今回の記事であり、団体と決別する(あるいは割り切って関わっていく)ということに関するアドバイスを含んだ記事となる。

 

そして、次回は団体を信じてともに歩んでいく道を選んだ場合のアドバイスを含んだ内容が次の記事になる。

 

注意点として、この記事だけ読めば、「お前は、団体と決別する(あるいは割り切って関わっていく)よう促しているのだろう」と見えるかもしれない。

 

確かに、この記事はその様な方向での決断をした人に対するアドバイスを含んでいるため、その様な方向性を持たせて書いているのは事実だ。

 

しかし、その様な方向性を持たせたているからといって、必ずしも「その方向への偏った考えを持っている」という訳でもない(っと個人的には思っている)。

 

※ただ、プラシーボ効果という可能性をフェアに伝えない(あるいはプラシーボ効果を最大限にさせるためにも伝えられない)団体には良い印象を持っていないのは事実だが。

 

全ての記事は、意図を持って作っている。

エビデンスの重要性を説きたい場合は、その方向への意図を持って作っている。

プラシーボの重要性を説きたい場合は、その方向への意図を持って作っている。

メタ認知の重要性を説きたい場合は、その方向へ意図を持って作っている。

徒手療法の重要性を説きたいのであれば、その方向へ意図を持って作っている。

 

ただし、だからといって「徒手療法至上主義」でもなければ、「エビデンス至上主義」でもなければ、「メタ認知を全ての場面において展開する必要がある」とも思っておらず、「エビデンスの希薄な徒手療法の効果は、全てプラシーボ効果だ」と決めつけている訳でもない。

 

全てに善し悪しが存在し、
全てにおいてバランス感覚が大切だ。

 

ただ、これらの記事を作る際、これらの主張が「自分の頭で考えることの大切さ」という問題提起として、観覧者に届くよう意図して作っているにすぎない。

 

その点はご了承願いたい。

 

私のブログ(やリンク先サイト)は、自身の学んだ事を自分なりに統合して広い視野で捉える事が出来るようになることを目的に作成している。

 

そして、「自分の視野を広げる作りにできるなら、それは他者の参考にもなるはずだ」という気持ちも強くある。

 

でもって、広い視野をもって徒手療法を眺めた場合、プラシーボに関して言及していないのは、むしろ「不自然」であるため、作成している。

 

その結果として、この「プラシーボ効果のカテゴリー」はプラシーボ効果についての情報であるとともに、今までブログ(やリンク先サイト)で記載してきた要素を上手く統合して表現してくれているとも感じている。

 

「エビデンスが重要」「徒手療法が重要」「感覚的側面以外の要素が重要」・・・・・などなど、そして「これらの要素への批判的思考の重要性」。

 

これらの記事やカテゴリーの各々が主張する「重要性」という「点」を、このプラシーボシリーズが上手に「線」に繋げてくれている気もする。

 

兎にも角にも、プラシーボ効果シリーズは残り3記事で完結となるので、楽しく観覧してもらえれば幸いだ。

 

 

「理学・作業療法士の不安・悩み」の続きはこちら

 

この記事は「プラシーボ効果」として、シリーズで掲載しており、続きの記事は以下になる。

 

新人理学・作業療法士は呪いめいた勉強会の注意点を知っておくべき!!

 

※プラシーボ効果シリーズは「別ブログで過去に連載していた記事」を移行したものであり、全7記事で構成されている。

 

※7記事は『プラセボ効果のまとめ一覧』にまとめているので、記事一覧はこちらを参照してほしい。