※今回の『報酬系(最終話) | 報酬系と報酬系』はシリーズとして掲載している。
※はじめて観覧する方は『報酬系その①:すべてはこの実験から始まった』から観覧することをお勧めする。
前回記事で「報酬系は、人になくてはならない要素である」という点を強調して解説した。
でもって今回は、「報酬系についてのまとめ記事」として『幸福と報酬系』と題して報酬系や幸せについて解説していく。
幸福に関する普遍的基準は存在するのか?
「となりの芝生(しばふ)は青い」という言葉がある。
意味は以下の通り。
私達の幸福という価値が絶対的なもであるならば、隣りの芝が青く見えることはない。
周囲がどうであろうと、自分には関係の無いことである。
理学療法の平均年収と自身の年収を比べることもないし、他人の成功を妬んだりすることもない。
しかし、私たちはとなりの芝が青く見えてしまうことがある。
そして、他者と比較してしまうことで幸福の価値基準を決めてしまうことがある。
豊かさと幸福は比例しない
現在の日本は、過去よりはるかに物質的な豊かさを手に入れた。
飢え死にすることは殆ど無く、平均寿命は世界最高レベルである。
しかし国民の幸福度を調べてみると日本は決して高くない(ギャラップ2010年の調査によれば日本の幸福度は81位)。
昔よりはるかに便利な生活を送ることが出来るようになった私達が、昔より幸福感が得られないのはなぜだろう?
沢山のお金があれば幸せなのか、他者よりお金があるから幸せなのか
次のような実験がある。
そして、正解するとお金(金銭的報酬)がもらえるのだが、その支払は以下のような仕組みにする。
①報酬は2人の成績によって決まる。
②どちらか一方だけが正解したら、正解したほうに支払われる。
③両方が正解すると、コンピューターが金銭的報酬をランダムに分配する。
この実験の結果、報酬系が最も強く活性化したのは「③両者が正解のとき」であり、なおかつ(コンピューターがランダムに分配した)金銭的報酬が相手よりも自分の方が多く、さらに得た金額が(予想より)大きく食い違った時であった。
この実験は非常に興味深いが、経験則として予想通りの結果とも言える。
つまりは私達が、自分の経済的な状況を、絶対的な物差しで見ているのではなく、周囲との比較で決めているということがこの実験から見てとれる。
他者との比較が幸福感の基準に
前述した実験以外でも、イギリスの調査で以下などが明らかになっている。
この調査の結論として、以下のことが分かったとしている。
つまり、十分生活が送れて貯蓄もできるレベルを基準にするのではなく、以下などを基準にして幸福度を決めているということになる。
- 同じ年齢な人の平均と比べてどうか
- 同じ理学療法士の平均年収(あるいは同じ医療従事者)と比べてどうか
- 周囲の人(兄弟・友人・知人などなど)と比べてどうか
・・・・など
例えば、私達理学療法士の年収もネットを検索すれば容易に出てくる。
そして、(よせばいいのに)その平均年収と自身を照らし合わせて、幸福感を得ようと試みる。
それで、落胆してしまうこともあるのだが、「報酬系は予測出来ない報酬が得られた方が活性化され易い」という特徴から、一縷の望みで検索してしまう。
これは、なにも金銭的報酬に限ることではなく、社会的報酬であっても同様である。
例えば、子供のころに「自分は90点とれた」という絶対評価における満足感よりも、周囲をチラチラと確認して「皆が50点くらいしか取れていないのに自分は90点を取れた」という相対評価の方が、自身の満足感が高かった記憶はあるのではないだろうか?
クライアントも同様で、一般より元気だという相対評価を組み入れてあげた方がモチベーションが上がることがある。
例えば95歳のクライアントが「家の中を歩くのに、杖を使っているにもかかわらず相当な時間を要してしまう」などと嘆いていたとする。
そんなクライアントに対して以下の様に伝えてあげるのはどうだろう。
多くの90代の方と接していますが、一人で暮らせて料理や洗濯も出来るなんて、非常にお元気な部類に入ると思います。
あるいは、以下の様に(誇張でも嘘でも良いので)自身を自虐的に表現することで、相手を持ち上げてあげるのも効果的かもしれない。
そんな事を話していると、相手も「そんなものかね」などと呟きながら、まんざらでもない様子であったりもする。
※内心は、他者から上記の様に言ってもらえることを期待して嘆いているケースもあるのだが、その辺りまで深堀するとキリが無いのでこの辺で。。
クライアントのエピソードは蛇足であったが、「他者と比較することで幸福感が決まり易い」というのは間違いないだろう。
例えば貧困に陥り、ホームレス生活を余儀なくされ、1日1食のカップ麺しか食べられなくなったとする。
しかし、そんな状況下であったとしても、テロで他者が無残に殺戮されまくっている国に住んでいるのであれば「カップ麺を安全に毎日食べれることの出来る環境下にいること」は間違いなく「幸福だ」と表現できる。
「不幸な人」っていったい誰だ?:
いうまでもないことだが、人生の全てに満足している人はそれほど多くない。
幸福や不幸は他人との比較から生まれてくる感情だから、社会的には成功者とみなされていても、本人は屈辱と嫉妬の泥沼をのたうちまわっていることだってあるだろう。
~『書籍:貧乏はお金持ち 』より引用~
誤解させないための補足。「他者との比較」と「給料」
ここまで報酬系について偉そうなことを記載してきたが、この記事の内容がすべての人に当てはまるわけではない。
物事には様々な側面があり、全ての事象を、一つの物差しで測ったりすることは出来ないのだ。
そんな意味も込めて「他者と比較することによるメリット」と「給料(お金)の重要性」についても補足として解説しておく。
他者と比較することによるメリット
一般論として、目標に掲げるべきは「自身にとっての幸せ」であり「他者との比較」によって設定すべきではない。
例えば「職業の優劣」「給料の優劣」「結婚・離婚しているか」、細かいことで言うと「ブログのアクセス数」や「副業での収益」などなど比較しようと思ったら、いくらでも比較できるが、無意味である。
しかし一方で、他者と比較することにメリットが無いわけでもない。
例えば「○○に負けたくない」という思いは成長への原動力となり得る。
その対象は、家族(親兄弟)かもしれないし、仕事の同僚かもしれないし、見ず知らずな誰か(自分と同じような性別・年齢・教育レベルな人)かもしれないし、憧れのタレントかもしれない。
そして、これらの人達と自身を比較し、切磋琢磨する努力こそが、積り積って、自身を大きく成長させることにつながる場合があることも経済学的に証明されている。
例えば、経済学用語で『(正の)ピア効果』という概念がある。
その意味は以下の通り。
例えば、水泳を用いた研究では「水泳選手が一人で泳ぐときより、両側のレーンに競争相手がいるときの方が好タイムが出やすい」という結果が出ていたりもする。
ピア効果に興味がある方は、以下の記事で深堀解説しているので合わせて観覧してみてほしい。
ライバルに勝つことを目標に掲げてドーパミンを分泌させて行動に駆り立てたとして、仮にライバルに勝てたところで(恐らくは)一瞬の優越感しか起こらないだろう。
しかし、ここで重要なのは「ライバルに勝つ」という目標を掲げて努力する過程で手に入った要素(パフォーマンスの向上など)と言える。
こといった原理も(正しく理解し、誤った方向に用いず)上手に利用していけば、長期的にみて大きな成長・成果を見込める可能性を秘めている。
重複するが、どれだけ目標をクリアしても(報酬系の特性上)私たちは満足することは無いだろう。
ただし、ここまでの記事で述べてきた「報酬系の特徴」を十分に理解して活用しつつ、ドーパミンに依存し過ぎず現状の幸せもかみしめることができたなら、それは素晴らしいことではないかと思う次第である(なんかエラそうな言い回しだな・・・)。
給料(お金)の重要性
アメリカの経済学者であるリチャード・イースタリンが提唱した有名な現象に『イースタリンの逆説』という法則がある。
※この法則は後に、他の学者による検証でも証明されている
イースタリンの逆説とは以下の通り。
しかし、年収が一定レベルに達すると、それ以上、収入が増えても幸福感は変わらない。
この「一定レベルの年収」というのは、年収800万円(アメリカでは7万5000ドル)と言われている。
以前の記事(報酬系③)で「お金に執着しすぎても際限がないため満足しにくく、弊害もある」と記載した。
あるいは「成功したら幸福になれる」ではなく「幸福だから成功できる」という趣旨の記事も投稿した事ことがある(⇒幸福優位の法則とは? ショーン・エイカーが語るポジティブシンキングの重要性)。
しかし、ここに記載した一定レベルの年収以下の人、あるいは貧困層の人達には綺麗ごとに過ぎず、響かない可能性が高い。
なので、何だかんだ言っても「一定レベル以上のお金」は幸福感を得るために必要で、それすらない状態では『元々ポジティブシンキングな気質を持っているが、一時的に落ち込んでいる人』以外には、あまり心に響かない内容かもしれない。
結論として(難しいかじ取りが要求されるが)、「ドーパミンに依存しすぎず(ギャンブルを含めた安易にお金が稼げるような要素にはまりすぎず)、上手く年収を増やすことこそが、適度な報酬系の活性化も伴って、幸福感の上昇につながる」と思われる。
ちなみに、この記事で記載したイースタリンの逆説は以下の記事でも解説してるので興味がある方は観覧してみてほしい。
終わりに
結局、「報酬系」は善なのか悪なのか、その問いに答えるべく『書籍:スタンフォードの自分を変える教室 』から一部を抜粋してみる。
もしかしたら、あなたは途方にくれているかもしれません。
報酬を期待したところで喜びを得られるとは限らず、かといって、報酬をまったく期待しなくなれば喜びも感じなくなります。
報酬への期待が高すぎれば誘惑に負けてしまいますが、報酬を期待する気持ちが無ければ、やる気も起きません。
このジレンマに対しては、簡単な答えはありません。
人生に興味を持って取り組んでいくためには、報酬への期待が欠かせないのは明らかです。
運が良ければ、報酬システムはずっとそのために働いてくれるでしょう。
これで、害になることさえなければ有り難いのです。
私たちの暮らしはテクノロジーで彩られ、広告で溢れ、24時間絶えず何かを求め続けながらも、満たされことのない日々を送っています。
そんな私たちが、もしいくらかでも自制心を手にしたいと思うなら、人生に意義を与えてくれるような本当の報酬と、分別をなくして依存症になってしまうようなまやかしの報酬を、きちんと区別しなければならりません。
そのような区別をできるようになることが、私たちにできる最善のことなのです。
これは必ずしも簡単な事ではありませんが、脳の中で起きていることを理解すれば、少しは容易になるでしょう。
オールズとルミナーのラットが必死にレバーを押し続ける姿を思い描くことが出来れば、たとえ誘惑にかられても、脳がつく大きな嘘に騙されない分別をもてるのではないでしょうか?
欲望は、行動を起こすために脳が仕掛ける戦略です。
これまで見てきたとおり、欲望は自己コントロールに対する脅威にもなれば、意志力の源にもなります。
ドーパミンが私たちを誘惑へと駆り立てるとき、私たちは欲望と幸せを区別しなければなりません。
しかし、一方で私たちは、ドーパミンや報酬への期待を利用して、自分や他人の人達のやる気を引き出すことも出来ます。
つまるところ、欲望自体は良くも悪くもありません。
大切なのは、欲望によって自分がどこへ向かおうとしているのか、そしてどういう場合なら欲望に従っても良いか見極められるかどうかなのです。
結局は、報酬系の良し悪しを理解し、報酬系のネガティブな面に引きずられないよう十分注意しながら、上手に報酬系のポジティブな面を活用していくことが大切という事になる。
重複するが、(報酬系を活用して)目標に向かって突き進むことは決して悪くなく、目標達成をコツコツと積み上げることで、大きな成果に結びつくことは少なくない。
つまり、「現状に満足して何の行動も起こさないこと=幸せにつながる」と言っているわけではない。
ただし、何事にもバランス感覚が大切で、目標を持ち続けて前進することの重要性を理解すると同時に、まだ見ぬ未来にばかり目に向けるのではなく、
「目の前のことを、いかに幸せに感じることができるか」といった点も、ドーパミンに依存した生活から脱却するヒントといえる。
この点は、マインドフルネスとして様々な書籍で述べられているが、ここでは『書籍:面接官の心を操れ! 無敵の就職心理戦略』から心に響きそうな文章を引用しておく。
「ないものねだり」ではうまくいかない:
成功した企業家、様々な分野のプロ、やりたいことに全力で取り組んでいる人を見ると、ついつい「あの人は才能があるから」「たまたま人脈に恵まれていたから」「実家がお金持ちだから」といった理由をつけて「自分には無理」という結論に至ってしまう人は珍しくありません。
その一方で「意識高い系」と呼ばれるタイプの人たちもいます。「留学してもっと視野を広げます」「勉強会に出て人脈を作りたいです」「資格の勉強にチャレンジします」と積極的に動くタイプです。
ところが、このタイプの人たちは、大抵はすぐに挫折してしまいます。
「自分には無理」だという理由を探して動かないタイプ。
新しい何かを身につけようとして挫折する意識高い系。
両者に共通するのは「ないものねだり」の姿勢です。
自分には○○がないからうまっくいかない。××を身につければうまくいく・・・・というように、自分いないもののことばかり考えてしまっている。
実は、この発想こそが、うまくいかない理由なのです。
大事なのは、ないものを求めることよりも、自分が持っているものを知ること。そして、それを活かすことを考えましょう。
―中略―
「自分にはこの技術がないから無理だ」とか、「この資格を取らない限り出来ない」といった「ないものねだり」の発想は無意味だとわかっていただけるのではないでしょうか。
自分はこれを持っていないから大した仕事に就けない、才能がないからやりたいことができない、なんてことはありません。
まずは、自分が何を持っているのかを知ること。そして、それをどう使ったらやりたいことができるかを考えてみることが大事なのです。
そもそも『奇跡』とは何だろう by コードブルー
最後に、『ドラマ:コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-2nd Season 最終話』における山ピーの最後のナレーションを記述して終わりにする。
そもそも『奇跡』とはなんだろう?
「自分」や「自分の大切な人」が健康であること。
「打ち込める何か」があること。
間違いを正してくれる「上司」や「仲間」がいること。
「負けたくないと思える相手」がいること。
そういう「ささやかな幸せ」を『奇跡』と言うのだろう。
俺たちの生きているこの世界は、『奇跡』で溢れているのかもしれない。
ただ、それに気づかないだけで。。
そう。
すぐそばにあるのだ。
沢山の『奇跡』が。
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