※この記事は、連載してきた「プラセボシリーズ」の最後の記事となる。
※最初から読んで頂けていることを前提とした記事なため、初めての方は『理学療法士・作業療法士が知っておくべきプラシーボ効果・ノーシーボ効果』からの観覧をお勧めする。
※本当は宗教的治療といったタイトルが適しているのかかもしれないが、「最後は前向きなタイトルで終わりたい」との思いから「理学療法士(作業療法士)自身の将来性や未来のために」とさせてもらった。
※このプラシーボ効果シリーズは、特定の限られ人に対するメッセージでもあり、その方々に響きやすいような工夫を凝らした作りになっている。
※その方々の未来に少しでも貢献出来たら幸いだ。
目次
理学・作業療法士の将来性や未来のために
この「プラシーボシリーズ」は、他者の主軸としている治療概念が、単なるプラシーボ効果かどうかを暴くことを目的としていない。
一方で、あなた自身が学んでいる概念におけるプラシーボ効果の優位性を測るリトマス試験紙としては活用できるのかもしれない。
この記事を読んで思い当たる節が無ければ、あなたが学んでいる概念のプラシーボ効果の優位性は低いのかもしれない。
あるいは思い当たる節があったり、イラっとするなどの認知的不協和が生じるのであれば、ヤフー知恵袋の投稿者のように、一度立ち止まって思考を巡らせてみるのも良いかもしれない。
そして、思考を巡らせた上でどの様な道を歩むにしても、あなたにこれまでの様な迷いが消え失せていることを願う。
もしかすると、既にその概念につぎ込んだ時間やお金が膨大で、プラシーボ効果における疑念に思いを巡らせたところで、結局は後に引けない人も存在するかもしれない。
その様な人達は、このプラシーボ効果シリーズをボロカスに批判する対象にしてもらって構わない。
批判することで恐らくは、認知的不協和の改善・確証バイアスが強化につながり、治療成績に支障をきたすことはないと思われる。
プラシーボ効果シリーズは、今回の「理学療法士(作業療法士)自身の将来性や未来のために」で最後となる。
この記事は「治療概念と宗教」をテーマに話を展開させていくが、(前回記事と同様に)プラシーボ効果シリーズの補足的な位置づけになるため、気楽に読んでもらえると思う。
長期にわたる連載を、根気強く読んで頂けたことに感謝する。
宗教とは
宗教とは何だろう?
宗教は時として、人のかけがえのない拠り所として機能する。
どんなにお金を持って裕福そうに見える人でも心が満たされていないことがある反面、どんなに貧しく奴隷のように扱われていたとしても宗教として心に神を持つことで、どんなお金持ちよりも満たされた気持ちになることは可能である。
この様に宗教とは、貧富の差に関係なく、誰にでも平等に幸せなどの拠り所をもたらしてくれる側面を持っている。
つまりは、非常に素晴らしい概念と言えるだろう。
しかし一方で、宗教とはお金儲けの道具となり得る。
宗教とは神秘的・崇高的・万能的存在であるがゆえに、様々な悩みに付け込んで、宣伝の仕方次第では、お布施などと称して幾らでも踏んだくれる側面を持っている。
つまり宗教は、「お金を全く必要としない万人に対する拠り所となり得る要素」と捉えることが出来る半面、「人々の不安や悩みに付け込んで詐欺まがいな行為が出来る要素」と捉えることも可能である。
そして、「ある新興宗教に入信している」などといった話をされる際の私たちの反応は、宗教を後者の意味で(無意識に)とらえてしまいがちな印象を受ける。
私たちの身体には、科学で解明されにくい神秘的・崇高的・万能的側面が存在する。
そして、この側面は時として、無限な価値を見いだせる可能性を秘めており、プラシーボ効果・ノーシーボ効果として医療において無視できない側面を持っている。
一方で、身体には神秘的・崇高的・万能的な側面があるが故に、それを悪用しようとする人達、あるいはこのスピリチュアルな側面を盲信してしまう人たちが現れてしまうのも事実である。
理学療法・作業療法と宗教的治療
宗教的な治療概念は、その概念に対する信念が強ければ強いほど治療成績が向上し、批判的思考を向けてその概念を疑えば疑うほど治療成績が低下するという点が特徴の一つのかもしれない。
これは、神の存在を信じて拝めば拝むほど神の恩恵(あるいは存在)を感じることが出来るのと同じである。
つまりは、宗教的なのだ。
宗教が悪いというわけではなく、信じられなくなったからこそ苦悩するという側面があると同時に、信じるからこそ救われるという側面も持っており、それに善し悪しがあるわけではない。
ただ単純に、それらの概念が宗教的だと言うだけだ。
そして、これまでの記事でも述べてきたが、これらの概念を活用する際に一番重要な事は、その概念で説かれている崇高的・神秘的・万能的な存在を信じてあげることだと思う。
確かにあなたの徒手的技術(蓄積された徒手的な経験や器用さなど)が優れていれば、どんなに宗教的な治療概念であったとしても、(その概念を信じる、信じないにかかわらず)ある程度のレベルにまでは到達出来ると思われる。
しかし、更なる高みを目指すには、何はともあれ、その概念を無条件に受け入れ強烈に信用するという強固な姿勢が必要となってくる。
もし他者から「あなたが主軸にしている治療概念は宗教的だ」などと言われると、あなたは不愉快に感じるかもしれない。
それは、前述したような「宗教=新興宗教のように詐欺めいている。マインドコントロールされている」といった負の側面がフォーカスされた世間一般のイメージと関係しているのかもしれない。
しかし、そうだとしても、神を信じれるかと同様に、その治療概念を信じる思いに治療成績が左右されるとするならば、
「あなたの用いている治療概念は宗教的だ」と(良くも悪くも)表現せざるをえないということだ。
宗教的治療を用いる理学療法士・作業療法士は悪なのか?
宗教的治療を用いる理学療法士・作業療法士は悪なのか?と聞かれれば当然、
「そんなことは全くない」
と言えるだろう。
そもそも彼らの中には、現代医学・従来の理学療法・作業療法の限界を感じて、(その限界の感じ方が深いか浅いかは別として)「クライアントをもっと良くしたい!」という一心から宗教的治療に着目している場合もあり得るからだ。
つまりは「少しでも多くの人々を救いたい」というピュアな思いのもとで、一生懸命に関わろうとしている人達も混じっているということで、その人達の信念・気持ちは本物な可能性もあるということだ。
従って、その辺にいる理学療法士・作業療法士よりも志が高い人達が混じっている可能性も否定出来ない。
※もちろん、安直に結果を出したいという思いが先行し過ぎていたり、思考停止で努力を向けるベクトルがぶっ飛んでいるケースもあるかもしれない。
※あるいは理学療法士・作業療法士が開業して有名になりたいと思うのであれば、病院でのアプローチとの差別化という意味での手段にもなったりする。
※つまり、病院では行われないような突飛なアプローチであるが故に、その効果に藁をもすがる思いでクライアントが通い、それが仮に医療・医学とは到底言えないデタラメであったとしてもプラシーボ効果が発揮される条件が整い、作動する事はあり得るということだ。
※たまに芸能人などが病気で余命宣告をされてしまい、藁をもすがる思いで、民間療法に通うといったエピソードが分かりやすいのではないだろうか。
※その様なケースであっても不治の病であれば結局は不幸な結末が待っていることが多いもしれない。
※しかし幸か不幸か、慢性的な痛みは(認知・情動的側面の関与も高まっている場合もあり)プラシーボ効果によって改善する可能性を持っており、(クライアント本人の信念と合致していたり、期待感の高まり次第では)良くなったりするケースも多いのかもしれない。
※ちなみに、整体院などのHPに特徴(例えばスピリチュアルな概念など)を謳っておけば、その概念に興味があるからこそ訪れるといったケースも多いと思われ、HPの作り方次第では、プラシーボ効果が作動しにくい人をふるいにかけておくことが可能となる。
また、それら宗教的治療を創始した人達も、従来の西洋医学に限界や憤りを感じている人物が少なくない。
例えば息子が病気に侵されて、それを西洋医学で救えなかった事から、西洋医学以外の勉強を始めたという創始者もいたりする。
えてして、神秘的・崇高的・万能的な要素に価値を見出すのは、この様なインパクトのある動機が隠れているのかもしれない。
そして、自身の概念の提唱が社会貢献につながるという信念をもった指導者と、その指導者と同じく崇高な目的意識をもってついて行く受講者たち。
どちらも、彼らなりの正義感からの行為な場合もあるだろう。
そして何度も言いうが、宗教的治療でも結果が出せているのであれば、臨床的側面においてはその結果が全てであり、プラシーボ効果がどうのこうのと、他人がとやかく言うことは全くないと思われる。
ただし、それらの人達がセミナーを開くとなると話は変わってくるだろう。
冒頭の「宗教とは」で解説したように、神秘的・崇高的・万能的な概念における作用機序を「プラシーボ効果」という非常に安っぽい表現が可能な側面を有しているのに対して、いか様にも治療概念の価値を高め、信者からお金をぼったくれる側面を持っており、これが宗教的治療の負の側面の一つといえるだろう。
そして、「クライアントを良くしたい!」という純粋な信念を持っているピュアな指導者を神の如く祭り上げ、
それに盲信的に付き従う信者達を横目に、
これらの宗教的現象を「単なるプラシーボ効果に過ぎないんだがな」などと言いながら俯瞰的に眺め、
札束を数えながらほくそ笑んでいる人物がいるのだとするならば、
その人物こそが諸悪の根源と言えるのかもしれない。
※特定の団体に心当たりがあるというわけではない。
※ただのテレビドラマの見過ぎだと思う。
兎にも角にも、セミナーを開いて指導するならば、プラシーボ効果の可能性がどの程度除外出来ているのか、あるいはプラシーボ効果の優位性が高い可能性も十分に伝えた上で、受講者と相対するのがフェアではないかということだ。
でなければ、ヤフー知恵袋の投稿者のような「よくありがちな人達」が増えてしまう。
彼らに、プラシーボ効果の優位性を説明してあげるだけで、悩むことなく思考することもできるのだ。
だれかに「違和感を指摘された」としても、「この概念はプラシーボ効果な可能性も指導者は指摘していたし、この人には効果が作動しにくいのかもな」などと呑気に考えて、まっとうな理学療法・作業療法に切り替えれば良いだけだ。
それを、もろに神秘的・崇高的・万能的な概念に心酔して寄りかかってしまっているが故に、その「違和感」に対する辻褄が合わず、リハビリテーション全てにおけるモチベーションの低下、強いては自身が何を目標にしているかすら分からなくなるなどのレベルにまで陥って、悩みまくってしまうということもあるのだと思う。
暗示にかかりやすい、マインドコントロールを受けやすい人達の特徴には「まじめ」「実直」「素直」といった特徴があるとされている。
自身が体験したことと、指導者が自分の勝手な信念にもとづいて編み出した戯言を、本気で、真面目に、素直に聴いているのである。
そして一度マインドコントロール下に置かれてしまうと、他者が何を言っても、アナザーディメンションの如く、ブッ飛んだ場所まで思考がイってしまっているので、(残念ながら)こちらが言うことに効く耳を持ってくれない状態となってしまう場合もあったりする。
※もちろん、それ位ぶっ飛んだレベルにまで信念を強固にできているからこそ、その信念をクライアントへ伝播させ、プラシーボ効果を高めるといったポジティブな側面も持っていたりするわけだが。
※ちなみにアナザーディメンションとは、異次元空間に敵を吹っ飛ばしてしまうジェミニのサガの必殺技だ。
しかし残念ながら、(様々な理由で)ぶっ飛んだ思考を維持できず、途中でメタ認知が働いてしまい、ヤフー知恵袋の投稿者のような状態に陥ってしまう人も「ありがちなパターン」として多いと思われる。
あるいは、途中から怪しいなと思いながらも、投資した時間やお金が多すぎて、なかなかサンクコストと捉えることが出来ず悩んでいる人もいるかもしれない。
関連記事⇒『サンクコスト!あなたは呪縛に陥っていないといえるのか?』
しかし、彼らの悩みを解消するのは簡単だ。
もしエビデンスが希薄であり、プラシーボ効果の優位性が不透明であるならば、セミナーの開催者がその点も踏まえて解説してあげれば良いだけだ。
「科学的根拠に希薄な部分が多く、プラシーボ効果の優位性が高い可能性も否定できない。しかし、臨床上で様々な効果を発揮し得るのでぜひ学んでみてはいかがですか?そして、この概念のプラシーボ効果の優位性が如何ほどかに関わらず、熟達したタッチは徒手療法の基盤であるため、その能力向上にもつながるはずです」
この一言を添えるだけで彼らは(その概念も真剣に学ぶ可能性があり尚且つ)誰かに違和感を指摘されても、そこまで心は揺さぶられないと思われる。
プレミアムな値段設定をして、自身の概念の価値を上げて金儲けをする事ばかりに拘らなければ、この様に包み隠さず受講生に解説することも可能なはずだ。
もちろんエビデンスがあるならば、その情報を軽視せず、受講生たちに提示してあげるのが親切心というものだ。
「だって良くなっているではないか」というフワッとしたプラシーボ効果的な体験も良いですが、拠り所は多い方が良いだろう。
誰かに「違和感」を指摘された際に「だって良くなっているではないか」は拠り所にならなくとも、エビデンスが拠り所になることだってあるはずだ。
エビデンスの知識があるならば、ヤフー知恵袋投稿者の悩みは発生しなかった可能性すらあると言える。
「エビデンス」という表現で敷居が高く感じるならば、エビデンスとは呼べないような検証実験でも何でも良い。
その治療概念の信頼性を高めるための何かはやっているだろう?
学術的側面において解剖・生理学などを用いた理屈上の辻褄合わせに終始している訳ではないだろう?
面倒くさがって「だって良くなっているでしょう」といったプラシーボ効果的なもので終わりにせずに、それを示してあげただけで救われる人もいるはずだという話をしている。
言っている意味は、分かるはずだ。
医学に基づいた治療概念であると言ってる以上、スピリチュアルな解説だったり、解剖・生理などの辻褄合わせ以外に、他との優位性を検証する何かは絶対しているはずだという話をしている。
もちろん、それらの検証からは肯定的な見解のみならず、否定的な見解も浮き彫りになるかもしれない。
しかし、そんなのはよくある事で、そういうフェアな情報があるからこそ、その概念ともフェアに向き合え、適切な場面で用いることが可能となってくるのだ。
それが無いなら、「良くなったから私は正しい」と叫んでいる祈祷師と何が違うのかという事になってしまう。
自身の信念が他者のプラシーボ効果に与える影響
ここから先は、指導者の信念が受講者へ与える影響、あるいは理学療法士・作業療法士の信念がクライアントへ与える影響についてプラシーボ効果と絡めて考えていく。
このプラシーボシリーズでは「自身が拠り所としているものに対する信念が強ければ強いほど、それが治療効果に現れる可能性がある」という類の表現を何度も用いてきた。
この信念が治療成績に及ぼす影響としては、例えば自信なさげに施術をされる場合より、「この治療で絶対に良くなるのだ!」という強い信念をもって施術されるほうが、クライアントへのプラシーボ効果に伝播するといった感じである。
あるいは、様々な可能性を模索しながら施術にされるより、一つの突出した信念のもとで(時には原因を断定してしまうようなギリギリの言葉を用いながら)施術に当たられたほうがプラシーボ効果も伝播するといった感じである。
細木和子が「あなた死ぬわよ!」と言いながら、ビシバシと自分を非難したり、助言されたりするのが妙に心強く感じてしまうのと似ているのかもしれない。
※ちなみに私は、細木和子の一切を支持していない(念のため)
もちろん、これらの信念をもった施術というのは、時として鬼気迫るものがあるかもしれないし、逆に相手の全てを包み込んでくれるような穏やかな雰囲気を醸し出すこともあり、表情や立ち振る舞いなどでは説明しにくい要素を作り出し、それがクライアントに伝播するということも有り得るだろう。
そして、これらのニュアンスは観覧者にもイメージしてもらえるとは思うが、
これはあくまで私の主観の域を超えるものではなく、
事実として「施術者の信念の強さが、クライアントへのプラシーボ効果を増幅する」という事を証明している研究は見たことは無い。
つまり、これは私個人の経験則に基づく主観・憶測にすぎず、客観的に証明できる事実が存在するわけではない。
従って、施術者の信念がもたらすプラシーボ効果の影響を、信じるも信じないも、あなた次第ということになる。
プラシーボ効果が作動する条件から読み解く信念の影響
以前『医原的プラシーボ効果』にて、「書籍:高齢者の痛みケア」を紹介した。
そして、その書籍の中では「結局、人間の医療は、3つの信頼感から成立する」として、以下の要素をプラシーボ効果が作動するための信頼感として紹介している。
①患者の治療に対する信頼感
②医療側のその治療に対する信頼感
③患者と医療側の信頼感
そして、この3条件の中で、一番私が興味深く感じたのは「②医療者のその治療に対する信頼感」という点であった。
これは、『①患者の治療に対する信頼感』や『③患者と医療側の信頼感』とは異なり、プラシーボ効果が生まれるクライアント側の心理では無い要素でありながらも、クライアントに影響を及ぼし得るということを物語っているのではと感じる。
重複するが、セラピストが自分の治療に自信が持てていない場合は、いくらクライアントが治療方法やセラピストに対して信頼感を持っていたとしても、十分なプラシーボ効果は発揮されない可能性があることを意味する。
あるいは逆に、セラピスト自身の治療に対する信頼感(思い入れ・信念)が強ければ強いほど、その治療が『エビデンスに基づくもの』であったとしても、『インチキ』であったとしても、クライアントはプラシーボ効果としての影響を及ぼしてしまう可能性があることも意味する。
この内容はコラムという形で日本の医師が記載したものであり、何かの文献を基にして書いたのか、それとも臨床経験として感じた事を書いたのかは不明である。
なので、これをもって、「自分の信念が他者へのプラシーボ効果に与える影響」を証明したことにはらないが、興味深い記事と言えるのではないだろうか?
次は、「オウム真理教の麻原彰晃」を引き合いにして、「信念とプラシーボ効果」を考えてみようと思う。
オウム真理教とは何なのか?
オウム真理教とは、日本の地下鉄サリン事件という前代未聞の犯罪を引き起こした「麻原彰晃を教祖としたカルト集団」である。
詳しくはネットで「オウム真理教」「地下鉄サリン事件」「麻原彰晃」などで検索してみてほしい。
オウム真理教には、(幹部か一般信者かに関わらず)現役の東大生であったり、医師や科学者などの高学歴な人たちまでが入信しており(外部リンク)、「なぜ彼らのようなメタ認知(批判的思考)を十分に働かせることの出来る素質を持った人々までもが、マインドコントロールされてしまったか」ということも事件直後は話題となったらしい。
例えば学生であれば、最初は「ヨガの体験」などと敷居の低い内容から勧誘し、徐々にスピリチュアルな世界へ誘っていくという手法を用いている。
※実際はこの手法以外にも、あの手この手と様々な勧誘をして、徐々にマインドコントロールしていくという手段をとっている。
そして、ある時点では「ヨガで空中浮遊できる」などをも信じ込ませたりしている。
このレベルになってくると、マインドコントロール下、あるいはよっぽどな特殊な状況でなければ信じ込むことなどあり得ない類になってくる。
そして、高学歴な人達(科学者・医師など)であれば、メタ認知を働かせる以前に「鼻で笑って終了」となるレベルだと思われる。
なぜオウム真理教に信者は引き込まれたのか?
ここからは宗教が人を巻き込んでマインドコントロールされる原理を、信念と絡めながら考察するうえで参考になりそうなラジオ番組を紹介する。
2015年2月21日のラジオ番組「辛坊治郎ズームそこまで言うか」の中の、「1995年3月20日 地下鉄サリン事件から20年上祐史浩氏に直撃!オウム真理教とは何だったのか?」と題したコーナーで、上祐史浩氏が非常に興味深いことを話していた。
今回のラジオに出演した上祐氏は、オウム真理教の広告塔として当時はメディアへの露出度が高く、専門家やコメンテーターの指摘に対して、時には批判を論破し、時には話をすり替えてと、口のうまさから「ああいえば上祐(「ああいえばこう言う」を捩ったもの)」との異名を持っていた、非常に弁の立つ人物である。
私が、このコーナーで興味深かった辛抱氏と上祐氏のやり取りは以下の通り。
辛抱氏:
「俺も時々ね、新興宗教を始めてやろうかと思うわけだよ。」
スタッフ:
「思うんですか?(笑)
辛抱氏:
「思うんだよ(笑)。
だけどさぁ、そんなに沢山の人がついてくるという構図に持っていくっていうのが分からない。
どうやったら良いの?って話で。
なんでそんに皆大勢が(教祖に)ついていっちゃったかなぁ」
上祐氏:
「そういう発想だったら絶対教団はできない。
教祖がまず信じている。
教祖は人をだましているとは思っていない。
カルト集団の教祖は、まず教祖が一番信じている。
その信じる狂信の力で周りを巻き込んでいる。
信者はバカじゃないから近くで工程を見ますよね?
本当に騙しているのであれば分かります。
本人が信じているからこそ、周囲がグッと引き込まれる。
だから、辛抱さんみたいな人はまず(教祖に)なれないです。」
このやりとりは文字では臨場感が伝わりにくいため、時間のある方は是非、以下の26分からのやり取りを聞いてみてほしい。
プラシーボ効果、そして宗教から見えてくる私達への教訓
上祐氏の『教祖の素質』に関するコメントは、何度も麻原彰晃(オウム真理教の教祖)と間近で接してきたからこその説得力を感じる。
※上祐氏は未だにマインドコントロールが(完全には)説かれていないのではと主張をする人もいますが、私はそうは思っていない派だ。
そして、麻原彰晃という指導者の「人を引き付ける魅力」とは、まさしく前述したプラシーボ効果で言うところの「セラピストの信念の強さが治療成績に反映される」という点と類似しているのではないだろうか?
そして、これまでの要素を踏まえて、私達は以下のような点を教訓としなければと感じる。
- 治療技術への強い思い入れや信念を持っているほどに、(それがホンモノであろうとインチキであろうと)実際の効果にも反映される可能性がある。
- 指導者が自身の治療技術に強い思い入れや信念、自信があるほどに、受講生はマインドコントロールされてしまう可能性がある。
- 多くの人を惹きつけるカリスマ指導者の意見が、必ずしも正しいとは限らない(特に神秘的・崇高的・万能的解釈を謳っている概念を提唱する指導者)。
理学・作業療法士の将来性や未来のために
この記事のまとめとなる。
今までと重複する部分が多々あるが、神秘性、崇高性が前面に出された宗教色の強い徒手療法に、前述した要素を当てはめて考察すると以下のような解釈も可能となる。
- 強烈な宗教性、カリスマ性を備えた指導者は、べらぼうな額のセミナー料を受講生から騙し取ってやろうなどの邪(よこしま)な考えを持っている可能性は低いのかもしれない。
- むしろ、高額なセミナー料は当然の対価だと思っている可能性が高いのかもしれない。
- なぜなら、本気でその概念が素晴らしいものだと信じているからだ。
- 少なくとも指導者自身は、その概念を本気で信じており、その強烈な信念があるからこそ、周囲(クライアントや受講者など)を引き込んでいる可能性が高いのかもしれない(弟子や講師といった指導者の取り巻きが何を考えているかは別として)。
そして、プラシーボ効果であろうが、何であろうがクライアントが良くなるのであれば、構わない。
問題なのは、なぜ良くなったのかが、プラシーボ効果の側面以外で証明されていないことであり、それゆえに神秘的、崇高的な理論を信じてついてきた人達が「ヤフー知恵袋の投稿者的な状況」に陥ったり、お布施をたくさん積んでいるのに全く臨床で活かせないなどの被害が及ぶということである(弟子や講師といった甘い汁を吸ってる取り巻きは別として)。
※マインドコントロールが解けて新興宗教詐欺を訴える団体なんかも、大体は上記と同じような憤りから行動を起こしたりしている。
最後に、まっとうな学派を全面的に支持しているわけでもないことを付け加えておこうと思う。
かつて自分達の不祥事に受講生を巻き込でしまった団体もあるし、他を批判して優位性を持とうとする団体もある。
また、今回プラシーボ効果で一貫して私が訴えている「プラシーボ効果以外の要素」は、「どんなことを学ぶにしても、自分なりに考えて納得すること」だという点だ。
そして、納得するための「思考」というテーブルの上には、多くの情報が置かれている方が、思考の幅も広がると思う。
この記事も、そんな「多様な情報の一つ」としてテーブルの上に置いてもらう価値を持たせるよう作成したつもりである。
誤解しないでほしいのは、ここまで極論として誇張して表現しているのは、単に炎上商法を狙っているわけではないという点だ。
注目してもらえるようにセンセーショナルな表現も用いているが、読み進めていくうちに恐らくは、感情論を抜きにして、冷静に、尚且つ熱心に読んでくれる人が少しでもいるのではと思って書いている。
多様な意見が存在し、このプラシーボ効果シリーズとは真反対の意見もあるだろう。
そして、真反対な情報も重要だと思う。
そして最も大切なのは、一部の偏った情報だけでなく、様々な情報に触れることだ。
そして、それらの情報を吟味して、そこからどの様な道に進むかはあなたが決めることだと思う。
そして、このプラシーボシリーズの類な情報は滅多に見かけないため、そういう意味で一定の価値を持った作品に仕上がったのではと考える。
「自分が果たしてフェアに思考できているか」を考えるにあたっては、認知バイアスの存在を自覚することは有用だ。
そんな『認知バイアス』に興味がある方は以下も参考にしてみてほしい。
関連記事⇒『HP:認知バイアスとは』
どの意見が良い悪いといったことは無い。
それぞれが、恐らく信念のもとに行動し、その方向が自身の将来性・未来にとってベストだと思っていることだろう。
私はそれを否定しないし、人の数だけ、それぞれの進む道があると思っている。
様々に考え抜いた先の答えであれば、あなたがどのような道を歩もうと、決して後悔はしないはずだと思う。
理学・作業療法士が知っておくべきプラシーボ効果とは
長かったプラシーボシリーズもいよいよ終わりとなる。
ここまで読んで頂いて感謝する。
以下の記事全てセットで一つの作品になっているので、もう一度全てを通して観覧して頂ければ幸いだ。
- 理学療法士・作業療法士が知っておくべきプラシーボ効果とノーシーボ効果
- 徒手療法のエビデンス(科学的根拠)
- 徒手療法とクリニカルリーズニング(臨床推論/批判的思考)
- 理学療法士・作業療法士の不安や悩み
- 新人理学・作業療法士は呪い(まじない)めいた勉強会の注意点を知っておくべき!
- 理学療法士・作業療法士は辞めたいなら起業(整体院の開業)もあり?
- 理学療法士(作業療法士)自身の将来性や未来のために
ちなみに、7話すべてを束ねた記事は『プラセボ効果のまとめ一覧』になる。
また、関連記事として以下でもプラシーボ効果に言及しているので、プラシーボ効果についてもっと知りたい方はこちらも参照してみてほしい。
お互いの将来性を高めるために、これからも自分で思考していこう。
そして、お互いに素晴らしい未来が待っていることを祈っている。
ダラダラと余計な事も記載してしまったが、最後に『ペイン:臨床痛み学テキスト』におけるプラシーボ効果に関する内容を以下に引用して終わりにする。
古代においても疾患の症状や病気の治療に際して、様々な物が薬として処方されてきました。
例えばワニの排泄物・トカゲの血液・腐敗した肉・動物の腸から摘出した胆石・人の汗や暴行を受けた被害者の頭蓋骨をこすって取った苔などがあり、それらの医学的な利点は何も知られてはいないにも関わらず、すべて「医薬品」として、実際に病気の症状を改善してきたとされています。
また、古代のエジプト人はミイラの粉末で傷を治癒させたり、16世紀~17世紀の医者たちも寄生虫・乾燥したマムシのドロップ・絶食した人の唾液や蟹の目を処方していたとされています。
このような不確かで、おそらくは医学的には活性しない治療法であるにもかかわらず、患者たちは回復し、それを処方した医師たちは高い名声を維持することができました。
そして、これらの初期の方法や薬物は、現在では心理的な効果あるいはプラシーボ効果を持っていたと考えられています。
今日でも、医学的には証明されない様々な治療法は民間療法(folk medicine)の不可欠な部分として残っています。
例えエビデンスがほとんど、あるいはまったく無くても、治療効果があると言われている物質や、ある物(や行為)が自分達を癒すということを受け入れる人々の潜在的な力は、昔と同様に今も存在し続けています。
西暦500年にはいわゆる「ロイヤル・タッチ(Royal touch)」と呼ばれる行為、つまり王族や徳の高い人の「手を触れてもらう」ことは様々な病気に対する誰もが望んだ「治療法」でした。
そして今日でも、ロイヤルファミリーの人たち、聖職者、スターの座にある人物と直接触れ合いたいという人々の願望の中に、このような信念がいまだに表れています。